おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

どんな「記憶」か (20世紀少年 第507回)

 映画の第一部は細部をかなり変更していると書きましたが、第二部は大筋もずいぶん変えていますね。映画は映画でどういう構成になっているのか、改めて確かめましょう。それにしても、ただで観せてもらって文句いうのも何ですが、日ごろ余り民放を見ないせいか、コマーシャルの長かったこと...。


 第16集第7話「ともだち暦」の最初の3ページは、”ともだち”本人によると、全て「過去の記憶」であるらしい。そもそも彼の言うことを信じてよいのかという大問題があるのだが、この人物は自在にヴァーチャル・アトラクションを出入りしたり移動したりできるほどテクノロジーに詳しそうだし、この場面の当事者そのものなので、一応、信じてみる。


 では、誰のどういう記憶なのかということについて、考えてみようというのが今回と次回の趣向である。この3ページに描かれた絵は、ほぼ全て私の記憶にある。つまり、このマンガでこれまでに見た覚えがある。先日書いたように現代科学は、まだ記憶のメカ二ズムを解明できていないらしいが、とりあえず自分の記憶を頼りにして、今のうちに「言った者勝ち」を狙います。


 漢語ではコンピュータのことを「電脳」と書くらしい。さすがは、漢字文化圏の本家本元、見事な表現であるが、しかし完璧とは言い難い。なぜならば、われわれ動物の脳はすでに一部、電動だからである。脳が生み出す電波を可能な限り拾って、その総体を曲線で表現したものが、お馴染みの脳波だ。脳波の波形だけで脳の病気の診断もできるのだから、脳内の電気の果たす役割は大きいに違いない。

 去年だったか、マスコミでもネットでも話題になった事柄の一つに、将来、脳細胞間を行き交う電波を詳細に分析できるようになれば、人の考えていることや感じていることが観察できるだろうというニュースがあった。たぶん原理的には、可能なのだろう。例えば、電波望遠鏡は宇宙の彼方から飛んでくる電波をとらえて、天文現象を観測する装置である。


 だが、これは非常に迷惑な行為でもある。われらの思考や感情の中には、寅さんの表現を借りれば「それを言っちゃあ、おしめえよー」というものが、ぎっしりと詰まっており、そんなものが白日の下にさらけ出されたら最後、その人のその後の社会生活はボロボロになるに違いない。

 ショーグンがバンコクで看取った警官は、自白剤を大量に打たれたと言っていた。病院勤めの経験がある人に聞いたことがあるのだが、麻酔をかけると自白剤と同じように無意識のまま、とんでもない秘密を手術中に口にする人がいるらしい。そこまで極端なケースまで行かなくても、大酒飲みであれば同じような経験を幾らでもしているはずだ。沈黙は金なり。


 他方で、記憶は単に電気信号の集まりではないらしい。少し前に触れたが、最近の研究では、脳細胞の配列(つながり方とか並び方など)により、記憶が残るという説があるそうだ。受験勉強で記憶するものは、ほとんどが言語情報だが、私がこれらの絵に見覚えがあるということは、記憶が全て言語で成り立っているのではないということだ。複雑なのである。

 その記憶を、この第7話の場面では、機械装置と”ともだち”の身体が、ケーブルを通してやり取りしているのである。”ともだち”の一味は、記憶を伝達・保存する手段を開発したという設定になっているのだ。では、全ての記憶を読み取るのであろうか。フロイトユングが正しければ、われわれは無意識という厄介なものを内に秘めていて、ときにはそれが病気の元にもなるらしい。そんなものまで読み取り可能なのか。


 先ほどの思考や感情の場合と同様、記憶であれば何でもかんでも読まれるというのは、やはり御免こうむりたい。そして、この場面も、記憶はある程度、取捨選択されたうえで伝達されているように見える。言語情報は、ドンキーの「目を覚ま...」、フクベエの「く...死...」、”ともだち”の「バハハーイ」だけで、あとは「絶交だ」の繰り返し。絵も同様で、ほぼすべてテロと「絶交」の場面ばかりである。

 ところで、これらは唯一人の誰かが、目撃した物事そのものの記憶ではない。冒頭のフクベエの失敗は、山根かナショナルキッドが見上げているものだろう。ドンキーの最期はマサオともう一人の男、諸星さんの最期は長髪の人殺し、「バハハーイ」の”ともだち”はおそらく万丈目、抱き上げられている赤ん坊のカンナは多分、彼女の父親が見たものである。


 それ以外は、作者が客観的に描いてきた絵であろう。チョーさんやピエール師の最期を、この角度で誰かが見ていたとは思えない。また、これら全ての場面に、特定個人が立ち会っていたとも思えない。つまり、これらの「記憶」は視覚情報ばかりでなく、誰かが聞いたり読んだりして、知っているものも含まれている。

 それが、これらの既出の絵で示めされているのは、一言でいえば読者サービスかつ作者の便宜のためである。描く方も見る方も分かりやすいからだ。では、これは誰の記憶なのだろうか。それを次回、考えます。



(この稿おわり)






チャック万丈目や市原弁護士のオフィスがあったところ。
ちなみに、この標識が貼ってある壁は、小学館ビルです。
(2012年10月17日撮影)



























































































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