おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

君は誰? (20世紀少年 第502回)

 金曜日に録画した映画を週末に観ました。これだけ漫画を読んでいると、なんだか実際に身近で起きたことが映画になったような感じまでして楽しい。

 ただ一つ、冒頭の放送室の場面だけは省かないでほしかったな...。すべては原っぱの秘密基地で始まったと、どこかで書いた覚えがあり、今もそうだと思ってはいるものの、放送室の出来事がなかったら、もっと違う展開になっていたかもしれませんからね。最後がヴァーチャル・アトラクションだけに、確たることは言えないのだけれど。



 子供時代のフクベエとサダキヨの物語が終わろうとしている。これからサダキヨに代って山根が出てくるようになり、ますますフクベエは変人になっていくことになる。第16集の87ページ目、先を歩くフクベエと、嫌々あとを付いて行くサダキヨは、二階の廊下の右側にある部屋に踏み込んだ。

 大きな割れた鏡がある。振り子時計が横転している。神田ハルの個室だったのだろうか。僕に見えないわけがないと言いながらフクベエは幽霊を探している。しかし彼を驚かしたのはお化けの類ではなく、サダキヨの絶叫であった。フクベエのほうを見ながら何度も叫んだサダキヨは、最後に「のっぺらぼうだあ」という大声を残して走って逃げてしまった。


 最初の叫び声をあげたときの絵と、そのあとフクベエが振り向いた絵を見ると、両者の位置関係が分かる。フクベエは自分の後方やや左側に立っているサダキヨに背を向けて、鏡に向かう姿勢をとっている。サダキヨからから見て、フクベエの体の前側が鏡に映っていただろう。

 サダキヨは真っ直ぐ前を向いて叫んでいるのだから、鏡の中のフクベエを見て「のっぺらぼう」だと言ったに違いない。この二人の立ち位置は、先日、この屋敷に女を連れ込んで「のっぺらぼー」を見て逃げた男とフクベエらの隠れ場所と、大きな鏡を挟んでそっくりの位置関係にある。


 どうやら、フクベエは自分が見ても他人が見ても、鏡に映る顔がときどき、のっぺらぼうになるという奇病(?)の持ち主になったらしい。発症の原因は、大阪にいるはずなのに東京にいたり、お面を取り上げてサダキヨになりすましたり、顔のないテルテル坊主で人をだまそうとしたりと悪行を重ねていた報いであろうか。

 残念なことに、フクベエが大人になってからのエピソードに、直接のっぺらぼうが出てくる場面はない。敢えて言えば、フクベエの顔は昔も今も、コイズミが見ても春波夫さんが見ても、高須が放ったスパイがみても、どこにでもいるような普通の顔だったという複数の証言があり、しかもお面ばかりかぶっていて、およそ顔の印象が薄いのが特徴という程度か。


 おい待てよと呼び止めたが、サダキヨは逃げ去ってしまった。一人残されたフクベエは、今一度、鏡に向かう。ヒビの入った鏡には、今度はちゃんと見慣れた顔が映っている。「君は...誰...?」とふたたび彼は鏡の自分に訊いている。

 世の中には離人症とか解離性障害とか、自分が自分なのかよく分からなくなってしまうような症状も出る病気があるらしい。私は医療職ではないので、病名まで考えるのはやめる。できれば、専門医の意見を拝聴したいところだが、マンガの登場人物の精神鑑定などお願いした日には、こちらの精神状態を疑われ診断されてしまいそうなので諦める。


 次のページは8月31日の月曜日らしい。壁の日めくりカレンダーが、その日付を示している。昔はこういう日めくりを、出入りの商人さんがくれたりしたものだが(この絵にも何とか商店と書いてある。残念ながら住所不明)、今では殆ど見かけなくなったように思う。

 日めくりには、たいてい有り難いお言葉が一日ひとつ書かれていて、われらの道徳教育は日々、こうして地道に行われていたのだ。服部家の8月31日の諺は、「天網恢恢疎にして漏らさず」である。通常、悪いことをしてもお天道様は御見通しだよという意味につかわれる。


 しかし、この格言の出典である老子の一般向けの解説書、「老子入門」(講談社学術文庫)によると、ほとんどの古い写書は「漏らさず」ではなく「失せず」になっているばかりでなく、前段の意味からして、これは人が人を裁くことを戒め、天罰が下るに任せるべきであるという解釈が有力であるらしい。

 確かに、「20世紀少年」に登場する数名の極悪人は、法に基づき司法の手で裁かれたのではなく、天罰としか言いようのない死に方をした。フクベエ少年も書き物などしていないで、日めくりカレンダーが伝える知恵に耳を傾けるべきだったであろう。


 原稿用紙は当時の子供にとって、文集や遠足日記などを書くときに使うくらいの高級品であり、ひとたびこれに相対すれば自ずと緊張感に包まれ、背筋を伸ばさざるを得ないものであった。本来、原稿という言葉が示すとおり、文豪が太い万年筆で立派な文章を書くべき用紙である。

 ヒグラシの物悲しい鳴き声が聞こえる部屋の中で、何十枚もの原稿用紙に、ひたすら「万国博は本当に楽しかったです。」と書き続けるフクベエ少年。日記と違って読者を意識したものではない。呪文や念仏のようだ。明日以降、彼はヒーローになるはずなのである。最後の神頼みなのだろうか?



(この稿おわり)




彼岸花 (2012年9月30日撮影)


































































.