「デコピン」は、まだ現役なのであろうか。初めて「20世紀少年」に出て来たのを読んだときには、昔懐かしいと思ったのが...。今日(2012年7月31日)の朝のニュースによれば、ロンドン・オリンピックの柔道男子73キロ級で銀メダルを獲得した中矢力選手のご母堂はインタビューに答えて、優勝できなかった以上、会ったらデコピンしてやると仰ってみえた。
スタジオでこれを聞いていた世界第2位のご子息は、「相変わらず、面白い」と受け流しておられる。まだまだ、日本も大丈夫といったところですか。
ところで、将来、使うかどうかも分からない外国語を習うことに意味があるとすれば、それが翻って日本語を正しく詳しく理解する機会になり得るという点にあると思っている。海外に滞在すると、日本のことがよく分かると経験者はよく言うし、私もそのとおりだと思うが、たとえ外国にいかなくても英語などを通じて、国語の勉強もできる。
例えば私の経験では、たぶん中学校の英語の授業で、「真実」は「truth」、「事実」は「fact」であると教わったと思う。それぞれが和英で完全に一対一の対応をする同義語かどうかは別にして、小学校までは漠然と同じものだと考えていた「真実」と「事実」がどうやら少し違うものであるらしいと気付く。
ここでまた広辞苑のお世話になると、「真実」とは「うそいつわりでない本当のこと。まこと」とあり、「事実」は「事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄」と説明されている。こういう日常的な用語ほど、解説が回りくどく分かりづらいというのは辞書の宿命みたいなもので、要するに辞書など頼らず日常の会話や読書の中で理解せよということだな、きっと。
たぶん、真実とは全体像をとらえて評価するための抽象概念であり、一方で、事実とは個々の出来事であり、いずれにしても、本当であって嘘ではないということだろうか。自信がないので、もう少し分かりやすい表現を日本語のプロから拝借しよう。
司馬遼太郎「坂の上の雲」には、文春文庫の第8巻の最後に合計6章の「あとがき」が収録されており、さらにその次に「首山堡と落合」という短い雑文も載っている。その冒頭において、前後の詳細は省くが、司馬さんは小説家にとっての一般論として、真実と事実の違いを、こう記されている。
「本来からいえば、事実というのは、作家にとってその真実に到着するための刺激剤であるにすぎない」。ちょっと追加すると、「坂の上の雲」は日露戦争という歴史上の事実を真正面から扱っており、記録も膨大に残っているため「事実関係に誤りがあってはどうにもならず」、事実確認を単なる刺激剤と片付けて適当に済ませるわけにはいかなかったので大変な苦労をしたというお話です。
これは作家だけにしか適用できない考え方ではない。読者とで同様である。また、ドキュメンタリーでのみ行われる作業ではなく、フィクションとて同じである。例えば「20世紀少年」において、フィクションとしての事実関係は作家により提示されるが、その全てが描かれるはずもなく、読者は前後関係などから、また、それでも駄目なら欠けた部分を想像力で補いながら、真実を追求していくのである。
そうして初めて、自分だけの「坂の上の雲」や、自分だけの「20世紀少年」が出来上がって、愛読書と呼ぶにふさわしい手ごたえを生み、書棚を燦然と飾ることになる。詳しく知らないが、きっと文芸評論や翻訳という仕事にも、同じような体験があるのだと勝手に想像している。
理科室に歩みを進めた「ともだちマスク」の男は、「これが真実だ」と言った。これに対応するかのように、首吊り状態のフクベエも「そうだよ、これでいいんだよ」と語り、間に挟まれた万丈目を驚愕させている。ここでマスクの男が問題にしているのは、例えば「フクベエの足を引っ張る」というような個々の出来事が事実かどうかという範囲を超えて、この展開すべてが本当にあった「まこと」のことだという点である。
万丈目が気にしていたのは、自分が知っている「事実」が、バーチャル・アトラクションではどうなっているかというものだった。しかし、同じ「事実」を並べてみても、人によって「真実」は違う姿をしているかもしれない(司馬さんの表現によれば、「作家にとってその真実」である)。フクベエ少年は、まだそのことの重大さに気付いていない。
(この稿おわり)
朝釣りの海(2012年7月10日撮影)
泊まったホテルより(同日)