おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

貞観  (20世紀少年 第372回)

 第13巻の第5話は「2003年の告白」。開幕のページに富士山が描かれている。その裾野に大福堂製薬の大きな建物がある。どの方角から見たものだろうか。私が生まれた静岡市からは、間に山があるので、こんなに大きく見えない。

 東海道線でいうと新富士駅あたりから壮大な山容を見渡すことができるが、ビルや人家がたくさん建っているので、こういう緑豊か(たぶん)な光景ではない。どうやら宝永火口も大沢崩れも描かれていない。山梨県側からか、それとも御殿場や箱根のほうからの眺めだろうか。


 貞観という平安時代の年号は、おそらく私を含めて殆どの日本人は意識したことがなかったのではないかと思うが、昨年の大震災以来、頻繁に報道に登場したため、すっかり有名になってしまった。1150年ほど前の貞観時代に、東北地方を中心に巨大地震があり、太平洋側を大津波が襲った。研究者によりその実態がようやく分かりかけてきた矢先、そのとき以来の大規模な津波が再び東日本に襲来した。

 この貞観という年号は、日本のオリジナルの命名ではない。古代中国の大唐国の年号で、第二代皇帝の太宗の時代のものだと広辞苑にある。出典は易経だそうだ。平安時代の政権が、真似たのか知らなかったのか、再びこの年号を使っている。貞観時代はどうやら日本列島付近の大規模な地殻変動の時期であったらしい。大津波に加えて、富士山が大噴火しているのだ。


 大和民族が歴史を残すようになってからも、富士山は何回も爆発しているそうだが、有名なのはこの貞観と、江戸時代の宝永の噴火がある。平安時代と江戸時代は共通点が多い。長期政権であったこと、鎖国的であったこと、そのため独特の文化を産んだこと、最初と最後を除き戦争らしい戦争がなかったこと、そして富士山が大噴火したこと。ただし、江戸の宝永噴火が言わば一発勝負だったのに比べて、平安時代は何回も記録に残る噴火活動を行ったらしい。

 平安時代の末期、平氏に焼き討ちされた東大寺を再建するにあたり、その勧進(寄付金集めです)を請け負った西行法師は、東国に旅して平泉の藤原氏源頼朝に会っている。道中、彼が仰ぎ見た富士山は現役の活火山であった。西行はこの修行の旅において、彼の歌を愛する者ならば誰もが傑作と認めるであろう一首を残している。

    風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな


 貞観の噴火を西行が見たのが文学史の幸運であるとすれば、美術史の幸運は宝永の噴火の際、我が国の芸術史上、最高峰の画家、葛飾北斎が江戸に暮していたことだろう。爆風や火山灰に慌てふためく人々を描いた作品を、北斎展で何度か見た。このとき江戸の町には数センチの灰が積もったという。

 宝永の噴火は山腹からのもので、磐梯山十和田湖のように山ごと吹っ飛んだような大爆発ではない。中腹に穴が開き、下に積もった土砂が宝永山と呼ばれる小山を形成した。その程度でも遥か関東平野までこれだけの火山灰が届いている。

 いまの首都圏に数センチの灰が降り積もったらどういうことになるか。長いこと交通手段は機能しなくなる。水も飲めない。そしてIT機器のような精密機械は粉塵に極めて弱い。東京はゴーストタウンになるかもしれない。


 宝永時代は富士の噴火だけではなく、中部地方に連動型の大地震が起きている。貞観も宝永も、地面がつながっているのだから当たり前といえば当たり前だが、大震災と富士山の大噴火がほぼ同時期に起きている。

 わが平成はどうか。神様のみぞ知る。災害が怖いというよりも、あの優雅なお山が壊れてしまわないように、せめて自分が生きているうちは富士山に噴火しないでもらいたいと心から願う。


(この稿おわり)




葛飾北斎 「宝永山出現」