おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

君論 (20世紀少年 第371回)

 きみ論。「君」という日本語について考えてみようと思い立ったが吉日、どうせ何でもありの感想文だ。きっかけは、第13巻の76ページで、カンナに「おまえ」はここにいるんだと命じたオッチョが、95ページ目で別れるときには、「君」はここで母さんを待てと語っているからです。

 正確にいえば、その前すでに78ページ目で「君の母さん」と言っているから、その直前の出来事、すなわちカンナの「母さんは人殺しなの」という叫び声が、オッチョの心境に何等かの変化をもたらしたものと考える。


 外国暮らしは外国語で苦労することが多いけれども、英語は上司にも幼児園児にも「you」で話かけることができるので便利といえば便利である。その代り、慣れればどうということもないが、必ず「you」とか「your」とか言わないと、意味が通じない。英文法は厳格である。

 その点、わが日本語は柔軟なことこの上なく、面と向かってしゃべっているときなど、ほとんど一人称や二人称の代名詞を使わなくても会話ができる。いちいち「私が思うに」などと言わなくても、語尾に「じゃないかな」なんて言っておけば十分なのだ。

 その反面、どうしても二人称代名詞を使わなければならないときは、ちょっとした工夫を要する。20世紀最後の大みそかの夜、ケンヂの路上ライブに拍手を送ってくれた二人の若者は、ケンヂに対して「お兄さん」と語りかけている。昔は知らない大人の女性に声を掛けるときは「奥さん」で良かったのだが、最近は、そんな感じではなくなってきた。


 日常あまり使わない割に、人称代名詞の種類が豊富なのも日本語の特徴である。わたし、おまえ、きみ、あんた、ぼく、おれ、標準語の話し言葉だけでも沢山あるのだから、方言や敬語も加えたら無数にあると言えよう。私たちはほとんど無意識に、相手によって、場面によって、これらを使い分けている。

 では、現実の世界から離れて、創作においてはどうか。小説などは比較的、楽なほうで、「と、美彌子は三四郎に言った。」などと書き添えれば、いちいち彼女に「わたくしは」などと言わせなくでも済む。ところが、歌詞や漫画の場合は、誰が誰に話しているか必ずしも明確ではないことも多いので、日常会話よりも代名詞が多い。

 
 さらに、どんな代名詞を使うかによって、キャラクター設定、登場人物の感情、人物Aと人物Bの人間関係などを表現できる(あるいは、表現しなければならない)。例えば曲調からすると対極的な位置にあると言ってもよい演歌とハード・ロックの両者において、男が女を呼ぶときは、いずれも「おまえ」であるのが興味深い。

 私が若い頃のフォーク・ソングは「君」が多かった。吉田拓郎かぐや姫はほとんどそうです。他方、陽水にはバラエティがある。ちながみに、ロックとフォークの見分け方は2種類あるそうで、一つはギターがエレクトリックかアコースティックか。もう一つは、言い得て妙だが、ロックの歌詞は「お前が悪い」、フォークの場合は「僕が悪かった」。他罰と自責の違いは大きい。


 「20世紀少年」において、ケンヂたち幼馴染は大人になっても、みんなお互い「おまえ」と呼び合っているのが羨ましい。私のように故郷を離れた人間の場合、いま付き合いのある人は大人になってからの友人ばかりなので、なかなか「おまえ」とは呼べないものだ。

 第12巻を例にとれば、ヨシツネは五十を超えても、ユキジを「おまえ」呼ばわりしている。これに対してユキジはヨシツネを「あなた」と呼んでいるのだが、これはヨシツネが偉いからではなくて、ユキジの品格がなせる技である。カンナに対しても、あなたを使っている。ケンヂだけは「あんた」だが。


 現代では「君」(きみ)というのは、ちょっと威張った感じを与えかねない呼び方ではなかろうか。上司が部下に、校長が生徒に、気の強い娘が気の弱い男に(これは特にポップスの歌詞の中で)使いそうな表現である。

 ”ともだち”は、1997年の「ともだちコンサート」で、ケンヂを「君」と呼び、2015年元旦の理科室でオッチョや角田氏を「君ら」と呼び、子供のころも山根君を「君」と呼んでいる。ものすごく偉そうでもあるし、人間関係の距離も感じさせる。

 では、冒頭に戻って、この場面のオッチョはどうか。オッチョは空威張りするような男ではないし、そもそも偉いので、そうする必要もない。おまえが君になったのは、カンナに対する認識を改めたからであろう。


 カンナは両親を知らずに育った。ただし、父と母とでは事情が違う。父は、育ての親である祖母や叔父にとっても、「どこの誰だか分からない男」のままであった。カンナは父が死ぬ直前まで何の情報も持っていなかったのだ。「”ともだち”が見知らぬ父だった」というのと、「父さんが”ともだち”になった」のとでは大違いである。だから何とか耐えられた。

 だが、母の場合は大きく異なる。3歳までは、ケンヂに、お前の母ちゃんは必ず帰ってくるからなと何度も言われて育っただろう。ケンヂの母ちゃんも、まさか山形で孫に向かって「バカ娘」などと言ってはいなかっただろうと思う。


 ケンヂの母ちゃんは江戸っ子(たぶん)の町人だから「バカ娘バカ息子」などと口は悪いが、コンビニが襲撃されたとき、身を挺して守ろうとしたのは店ではなくてカンナであった。新幹線やまびこ号で山形に去るとき、見送りのケンヂに見せている母ちゃんの表情は、息子の身の安全を気遣う母親のそれ以外の何物でもない。

 家族を大切にしない母親から、キリコやケンヂが育つはずもない。カンナは母親についてのイメージを親族から得るのみであったが、それはきっと、暖かなものであったに相違ないと思う。その母さんが「ゴジラになった」という衝撃は、父親の正体云々とは天と地ほどの違いがあったはずであると私は思う。

 
 カンナが「母はゴジラになった」という、キリコの主観はともかくとして、オッチョにとっては的外れの認識を持っていることを彼は知った。それまではケンヂの姪にすぎなかったと言ってもいいカンナが、もはや逃れようもなく闘いの当事者になったということである。

 おまえはここにいろと命じた段階のカンナは、まだオッチョにとっては守るべき可愛い小娘に過ぎない。だが、母を人殺しと呼ぶカンナは、すでに戦友であり、且つこの時点では、冷静に話して聞かせなければならないことがある相手になった。第12巻で山根がオッチョと角田氏に話したことを伝える必要が生じた。「君の母さんが山根の前に姿を現した、2003年の話だ」とオッチョは言った。



(この稿おわり)



なでしこ満開(2012年5月14日撮影)