おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

お前は誰だ (20世紀少年 第356回)

 第12巻の第11話「銃声の正体」。理科室の入り口に立った忍者ハットリくんのお面を付けた男に対し、「お前は、誰だ」とオッチョは言った。山根は平然としている。読者もこのお面姿を、1997年の「ともだちコンサート」と2000年の「血の大みそか」の夜に見て知っている。

 では、オッチョはどうか? いずれも彼は実見していない。コンサートのことはケンヂから聴いているかもしれないが。霞が関の地下で見たビデオは、お面姿ではなかったし、血の大みそかではケンヂに置いてきぼりにされて後方にいた。ともあれ、山根が”ともだち”は必ず来ると言っていたのだから、当然その疑いを念頭に置いての質問である。


 「わからないのかい?」と相手は言った。このお面男にとって、オッチョがここにいることは不思議ではないのだろうか。山根と同じように、図書館の本で「ひみつ集会」の通知を探し出して来るだろうとでも思っていたのか。それとも、ショーグンと角田氏の行動は、この小学校に連れてきた部下たちに、監視され察知されていたのであろうか。

 ”ともだち”本人は、全く驚いている様子がない。それにしても、オッチョがどれほど危険な男か、万丈目や13番から聴いているはずである。何と言っても脱獄囚だし、チャイポンも恐れる何をしでかすか分からない相手に、部下を後ろに控えさせて単独で会いに来るとは、あまりに不用心であった。結果的に、オッチョは暴力を振るわなかったが、同級生相手のこの夜の油断は、文字通り致命的な軽率さだった。


 「僕はこんなに鮮明に覚えているのに」と彼は語る。「あの暑い夏、草の匂い、光と影...」。いっぱしの詩人気取りだな。詩人は虚構を語ることもある。「再び歌よみに与うる書」の冒頭に、正岡子規は「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれあり候」と書いた。

 ろくに見たこともない桜や紅葉、聞いたこともない鹿やホトトギスの声、行ったこともない歌枕の場所、そういうお定まりの用語にお定まりのレトリックで飾り付けをするような歌を、子規は駄洒落、理屈と痛罵した。フクベエが秘密基地を小馬鹿にしている様子は第16巻に描かれているし、基地の仲間ですらなかったことは本人がクラス会の席でケンヂに述べている。


 でも、”ともだち”の発言から離れてみれば、草の匂いというのは良い。今でも夏の原っぱなどに立ち、真夏の太陽が草葉を焼く匂いに包まれると、私は少年時代に戻ったような気分に浸る。ついでに言うと、遠い昔に女性に送った香水の香りに街角で気付くこともある。臭覚は原始的で記憶力の強い知覚だと思う。

 さて、”ともだち”は秘密基地の草でむすんだ罠だの、少年サンデーや少年マガジン平凡パンチだのと親しげに語り始める。ラジオのFENも出てくる。第1巻32ページのオッチョの話によれば、これは彼の父親が使わなくなった古いラジオで、基地内でFENにチューンしたときに聴こえてきたのは、ケンヂの人生を変えた「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」であった。


 しかし、これらの与太話よりも、オッチョを本当に怒らせたのは、”ともだち”が「よげんの書」の内容を、詳しく正確に語り始めたときである。目の前のお面男が、「よげんの書」を盗み見て、そのとおりの悪事を働いたと白状したようなものだ。オッチョもケンヂも、もとはと言えば自分たちが、これを考え、これを書いたことを何度も激しい怒りとともに思い出さずにはいられなかったのだ。

 それでも私が思うに、「よげん」を考え出したことや書いたことよりも、「よげんの書」を基地内に放置したことのほうが何よりまずかった。第1巻に出てくる秘密基地の数々の絵によると、基地内は木漏れ日でまだら模様になっている。雨が降れば、スケッチブックなど、ボロボロになってしまうだろう。それを避けるために、家に持ち帰るなどしてちゃんと仕舞っておけば、こういうことにはならなかったのにね。


 子供にそんなことを言っても仕方がないな。話が巨大ロボットまで進んだところで、とうとうオッチョの堪忍袋も緒が切れて、再び「おまえは誰だ」と棒を振り回すのだが、「僕はコリンズ...」というふざけた返事が戻ってきた。コリンズの件も第1巻に出てきた。

 それは「私はコリンズ」と言って”ともだち”が泣くシーン。コリンズは3人の宇宙飛行士のうち、ただ一人、月面に降りることができなかった。それでも帰還してからの彼は3人一緒でセレモニーに出たり、インタビューを受けたりで大変だったかもしれない。”ともだち”は、そういう人物に感情移入していたのだ。仲間外れ同志の気分だったのか。


 そして、その場面の続きには、月面着陸成功に喜ぶドンキーを眺めている子供たちに、「コリンズ大佐がかわいそうだ...」と言う少年の後ろ姿が出てくる。少年時代の”ともだち”であろう。振り向いた子供たちはその顔を見ているが、立ち合いはケンヂ、マルオ、ヨシツネの3人だけであり、オッチョはその中にいない。これでは彼の記憶力もその力を発揮できず、相手が誰だか分からないままだ。

 ちなみに、第1巻の129ページで、アポロの着陸に興奮したドンキーが「シュタタタ」と裸足で駆けあがっているのは神社の階段だが、「21世紀少年」上巻の第50ページで、ケンヂ少年がこの階段を「タンタンタン」と上っている。そのてっぺんで、彼は未来の自分に出会って驚いた。


 ここまできて、”ともだち”は話題を変えている。「誰も見ていてくれなかった」というのは、あるいはコリンズの話の続きでもあったかもしれないが、ともあれ間違いなく本題は、例によってスプーン曲げの話題である。とにかく私は自分の中学校時代の記憶から、スプーン曲げはインチキという先入観から逃れられず、この話題は嫌いなのだが至る所に出てくるのには参る。


(この稿おわり)



上野で「ボストン博物館展」を観て来ました。
ボストンで本物を見てから、早、20年余り...。
(2012年5月12日撮影)