おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

あさま山荘 (20世紀少年 第351回)

 第10巻の第10話「銃声②」は、129ページ目にあるユキジの「クラスの男子の様子が変わった」という発言に続く場面だろう。ユキジはカンナに早く戻るよう電話しているのだが、途中で切られてしまった。ヨシツネは首吊り坂の事件の年号、現実の1970年とヴァーチャル・リアリティーの1971年の違いに気を取られてブツブツ言っている。

 「”ともだち”は何かを隠そうとしているのか」というのが隊長の懸案事項である。彼はそれぞれの年の社会的な出来事に、解決の糸口を見出そうとしたらしい。1970年は万博。それでは、1971年は何があったかと、電話を終えたユキジに訊いている。「あさま山荘事件か?」とヨシツネは言うのだが、あれはたしか1972年じゃなかったかしらとユキジは否定的。そのとおり。


 ヨシツネは机に突っ伏して寝ているコイズミに、「おい、女子高生」と声をかけて起こしている。歴史の教科書で調べる気になったらしい。コイズミは「学校からそのまま転がり込んできている」そうで、あの日、サダキヨ先生とヨタハチで高校を後にして以来、ずっとここにいるらしい。学校が冬休みでなければ、落第間違いなし。

 コイズミは「女の子のバッグ、勝手に見ないでよ」と怒っている。ヨシツネは「別にコンドームの一つや二つで驚きゃせんぞ」と断って探しているのだが、コイズミは「やめてって言ってんでしょ、エロじじい」と怒りを増幅させているので、どうやら一つや二つではないらしい。


 歴史の教科書が見つかった。なんたってこのせいよ、と女子高生は言う。歴史の授業中に「テキトーにこのページ開いて、テキトーに自由研究は”血の大みそか”なんて言ったのが運の尽きよ」とコイズミは言っている。だが、実際はそれほどテキトーではなかったのだ。

 意地悪く第7巻を振り返ってみれば、最初にコイズミが選んだのはヒトラーであった。だが、残念なことに自由研究は世界史ではなく日本史だったので、「テロの首謀者」、遠藤ケンヂに決めたのである。大量殺人に興味があったのだろうか。さらに、先生に「それはやめとけ」と言われたにもかかわらず、前からおかしいと思っていた、この写真は変だとイチャモンを付けて強引に選んだのである。コイズミの波乱万丈の日々は、この写真から始まったのだ。


 血の大みそかの写真については次回に譲るとして、ユキジとヨシツネの会話に出て来た、あさま山荘事件について、少し触れておきます。人間は嫌なことは忘れやすいし、気持ち良いことを話したくなるものだし、だから昭和は良かったというのもご自由にどうぞと思いつつ、実際には酷いことも一杯あったのだ。

 進歩と調和の大阪万博の前後、水俣病イタイイタイ病をはじめとする公害の甚大な被害が表面化した。小学校の社会の授業でも取り上げられたのを覚えている。都市部の空気も川の水も水道水も、平成の今の方がはるかにきれいで、バーチャル・リアリティーに入ったコイズミが呆れているように、昭和の大気汚染や水質汚濁は正気の沙汰ではなかったように思う。


 経済や自然環境の問題だけではない。当時、実家では朝晩の食事どきにニュースを見る習慣があったのだが、年表を見ると、1972年の2月、私たちは札幌冬季オリンピックの70メートル級ジャンプの表彰台独占の快挙や、ジャネット・リンの尻餅と笑顔の演技を楽しんだ直後、あさま山荘事件と、その後に発覚する連合赤軍の大量殺人のニュースに圧倒された。空前の視聴率を記録したらしい。

 その悪事の詳細は、ここでは述べない。気分が悪くなる。ただ、この機会に幾つか私見を申し述べたい。あさま山荘は警察がまさに決死の包囲・突入を敢行、殉職者を出し、人質を救出した。快挙には違いないが、第三者がそのことばかりヒロイックに、ドラマティックに仕立てて語るのは下品である。


 山本夏彦は「センセーションも色あせる」というエッセイ(新潮文庫「最後の波の音」収録)の中で、こう書いている。

 「浅間山荘の攻防はスペクタクルだった。赤軍派であれ警察側であれ、どっちでもいい、撃ちつ撃たれつして血だるまになって息絶える瞬間を、安全地帯で見るのは人生無上の快事である。人はこうした邪悪な存在なのである。ダイアナ妃も醜聞だし、これも醜聞だ。」


 連合赤軍の集団リンチ殺人は、テレビで散々、その殺し合いの経緯や埋められていた場所の映像などを見せられたため、私は年上の世代が学生運動の自慢をするのを見聞きするたびに、これを思い出しては強い嫌悪感を抱く。連合赤軍は気に入らない相手を殺すことを「総括」と呼んだ。”ともだち”が同じ行為を「絶交」と呼んだのは、これを手本としたのかもしれない。

 さて、こんな不快な話題で終わってはいけないな。札幌オリンピックが懐かしい。ジャンプ競技に魅了された小学高5年生の我々は、大倉山シャンツェに似せて新聞紙などでジャンプ台の模型を作り、ジャンパーとスキー板も画用紙か何かで幾つも作った。試行錯誤して何とかジャンプらしきものができるようになり、飛行距離を争った。毎日毎日、そんなことばかりやっていた。


(この稿おわり)



昔はスーパームーンなんで言葉はなかったぞ。月は月でよい。(2012年、5月5日の背比べ)












































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