おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

探し物は何ですか (20世紀少年 第320回)

 第11巻の151ページ、日本で最初の「全身から血を吹き出す」病気がこの町で出たと聞いて、カンナはそれがいつだったかと問うた。老人の答えは、「1994年...95年ごろぐらいじゃなかったかな」というものだった。カンナが生まれる前だ。そして、病死したのは三人ぐらいだったという。

 老人によれば、さっき映画に映ってた岸壁の上の病院の女医さんが、「必死になって治療したおかげだってみんな言ってた」らしい。どうやら、老人ほか町の人たちはキリコに好意を持っていたようだ。もっとも、被害の規模が小さく済んだのは、1995年ごろの細菌の感染力が、さほど高くなかったからでもあろう。のちの1997年の段階でも注射する必要があったのだし。


 町長は箝口令を敷いたらしいが、結局、病院は閉鎖され、高速道路の建設計画も流れた。ところが、なぜか2002年の夏ごろ、その女医さんがひょっこり帰ってきたのだという。何日か滞在して、なんだか知らんが熱心に探し物をしていたそうだ。2000年以降のキリコの動向については後に出てくるので、そちらに譲る。

 ただし一つだけ、2002年の夏といえば、モンちゃんがサダキヨに会いに行った時期である。キリコに関して、サダキヨはモンちゃんに最新情報を伝えていたことになる。しかも、オデオン座という詳細な居所・行先まで、”ともだち”一派は把握していたのだ。キリコは常に追跡されていたとみえる。ワクチンごと「こうりん」させるために。


 次はカンナの質問タイム。1995年に女医はワクチンを使ったのか。その人は細菌学者か。なぜ2000年にそのワクチンを使って被害の拡大を食止めなかったのか等々、矢継ぎ早に訊くのだが、老人の答えは、よく分からんというものばかり。病院の経営者も「トモロー会」とか何とかと頼りない。もう20年も前だもんなあ。

 しかし、「映画のことなら何でも覚えているんだが」という発言がきっかけとなって、2002年の映画祭の折、居合わせたキリコが、ある映画を懐かしがって観たことを老人が思い出す。絵で見ると、さすがは血のつながった母と娘、二人は同じ席に座っている。キリコが観た映画は「ゴジラの息子」。彼女は弟と一緒に観たことがあると語り、そして、観ながら泣いていたという。


 第2巻にキリコとケンヂが、喫茶さんふらんしすこで喫茶している場面がある。1967年とあるから、ケンヂは小学校2年生。少し前に出てくる場面で、ケンヂが川に落ちて溺れかけ、キリコに救出されたのと年齢的には同じころだろう。キリコは「あたいがお母ちゃんになる」という1959年の両親への誓いを、こんな小さなころからしっかり守っているのだ。

 大人になってからケンヂは自分が書いた「よげんの書」が悪用されるたびに、俺の責任だと自分を責め、そのたびに周囲から「あんた一人で書いたんじゃない」と反論されているのだが、残念ながら少なくともサンフランシスコとロンドンの人々が1997年にひどい目に遭ったのだけは、「恥ずかしくて言えねえ」ケンヂの思いつきと、相当な因果関係がある。


 喫茶店のシーンの姉と弟は国際劇場で「ゴジラの息子」を観た帰りだった。ゴジラの息子にはミニラという名前があるのだが、映画のタイトルには使ってもらえなかった。ところで、ゴジラは正義の味方というイメージが、私にはない。作品によって役柄が違うせいもあるが、由緒ある建物や立派な建造物を壊して回る厄介者というのが私にとってのゴジラの印象。

 坂口安吾は、確か「安吾史観」においてだったと思うが、上杉謙信直江兼続のことを「戦争マニア」と呼んでいる。戦うのが好きだから、あんなに戦争してばかりいたというのだ。戦争にはライバルが必要だから、敵に塩を贈るのも当然ということになる。いかにも安吾らしい独断と偏見とユーモアに満ちあふれたご指摘。


 ゴジラもまさに戦闘マニアと呼ぶべきで、要するに戦いたいから敵を探し出しては、容赦なく日本列島や南の島に上陸してきて、そこら中を壊して回って平然としている。総計15万人ぐらいは踏みつぶしたかもしれない。なぜ私たちは、あんなにゴジラ映画が好きだったのだろうね?

 老人はキリコが探していたものが何だったかを知らなかった。カンナは休むことも許されず、笑うことも止められて鳴浜町まで来た。のんびりしている暇はない。病院の中へ行ってみたいと思った。老人と別れて岸壁を上る。敷地はフェンスに囲まれていて、「関係者以外立ち入りを禁ず」との看板がある。まともな病院ではない。カンナは関係者だから堂々と立ち入った。


(この稿おわり)





日暮里駅前商店街。明らかに接ぎ木なのに頑張って咲いた花。
(2012年4月5日撮影)