おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ラグビーといえば   (20世紀少年 第306回)

 第11巻第5話の「全身全霊」は、左ウィングの子門が激走し、逆転トライを決めるシーンで幕を開ける。日本の大学のラガーシャツは、モンちゃんが来ているような横縞模様が多い。スポーツウェアの中で、この種のラガーシャツほどカッコいいものは他にないと思う。

 大学ラグビーといえば、昔から六大学野球、正月の駅伝と並んで、大学のスポーツの花形である。明治大学の関係者には申し訳ないのだが、かつてラグビーの試合で慶応大の応援席に、「ラグビーは慶応 チョコレートは明治」と書かれた横断幕が張られていたのには笑いました。


 私の小学校時代の同級生に、野球が好きな友人がいた。彼の父親は、私の町内の野球チームの監督を務めていて、私も打撃やセカンドの守備などを教わったものだ。この同級生は右利きなのに左バッターに改造するなど、親子そろって大変熱心だったのに、なぜか彼は中学までで野球をやめ、高校ではラグビー部に入った。

 彼の家に遊びにいったとき、ラグビーの試合の写真を何十枚も見せてもらったのだが、印象的だったのは敵も味方も誰ひとり、笑顔を見せていないことだった。その前後あるサッカー経験者から、「トライを決めてもラガーは笑ってはならない。それが失点した相手に対する心遣いというものだ」という話を聞いたことがある。


 しかし、今ではラグビー選手もトライを決めると、サッカー選手のように喜びを全身で表すようになった。最近では外国人が増えたためだろう、大相撲も表現豊かになってきた。個人的には、わずかに違和感があるが、しかし、これも時の流れというものだ。少なくとも今や、やって悪いことではなくなった。

 大学生のモンちゃんもガッツポーズをしている。彼は卒業してから大手酒造メーカーに就職し、ラグビーを続けたそうだ。私は大学が関西こともあり、西のラグビーの名門となると今でもサントリーの名が浮かぶ。

 しかし、やはり当時ラグビーといえば新日鉄釜石なのだ。私は二十代のころ、みちのく一人旅をした際に、その工場を見てみたいという、唯それだけの理由で釜石に立ち寄った。氷結した道で滑って転んで背中から落ち、通りがかった女子中学生たちに笑われたのを覚えている。


 その釜石は、2011年3月11日の大地震による津波に襲われた被災地の一つである。釜石は明治二十九年の津波で、五千人という三陸沿岸最大の犠牲者を出している(吉村昭三陸海岸津波」より)。三陸は何度も何度も大津波の被害に遭った。

 そうした過去の津波被害の経験を活かすべく、釜石は防災教育に力を入れてきた。新聞か雑誌で読んだことだが、当日は、まず普段の教えを守って中学生たちが逃げ、それを見て小学生たちも逃げ、さらにそれらを見た老人施設の皆さんも逃げた。


 このため釜石では小中学生の99.8%が、高台に避難するなどして助かった。ここまでは素晴らしい。未来永劫、残すべき教訓である。ところが、どこの誰が言い出したのか、「釜石の奇跡」という言葉がマスコミやネットで広がった。これについて、今年3月8日号の週刊文春に、次のような記事が載っている。

 取材相手である釜石市の防災担当者も、記者も両方、匿名の記事だし、話を聞いたのは飲み屋のカウンターで、相手は酔っていたというから、話半分に聴いたほうが良いかもしれないが、しかし内容には含蓄がある。以下、記事の一部を引用します(一部、仮名遣いを変えました)。

 「そう持て囃されるのは、正直、つらい。防災を徹底していたつもりでも、どこかに油断はなかったか。釜石では千人以上が亡くなっている。この数字は、防災担当としては腹切りものだと思っています」。


 奇跡ではないのだ。千人以上が亡くなっているし、さらに多くの人が自宅や職場を失っているし、そもそも、亡くなった0.2%の子供たちの家族は、奇跡という言葉を聞いてどう思うだろうか。震災被害の規模が規模だっただけに、かえって我々は鈍感になっているところがないか。

 現地で活動してきた報道機関も、支援活動のボランティア団体も、僅かな額の義捐金を寄せただけの私より、ずっと立派であることは言うまでもないが、それでも強調したいことがある。自分たちは「これで食っている」あるいは「やらなくても食うのに困らないのにボランティアをやっているのは、楽しいからだ」ということを肝に銘じておかないと、はしゃぎすぎて奇跡だ何だと現地にとって迷惑かもしれない騒ぎを起こすことになりかねないと思う。


 さて、順調そうにみえたモンちゃんの青春も、ご母堂が病に倒れてから様子が変わってきた。モンちゃんは父上を早くに亡くしたのか、「母一人子一人の家庭だった。女手ひとつで大学まで入れてくれた母親だった」と回想している。最近、統計的に、寿命は遺伝的要素が強いと聞いたが、どうやら子門家は短命の傾向にあったらしい。

 看病のためモンちゃんはラグビーを断念し、その代り営業の仕事に本腰を入れた。何度もトライを決めるほどの好成績を挙げたようだが、あの逆転トライほどの達成感はなく、全身全霊で走り切った気にはなれなかったそうだ。

 その母上が8年間の闘病生活の末、お亡くなりになると、モンちゃんは上司とともに会社を辞めて起業し、ドイツ・ビールの醸造システムを輸入して、日本の地ビール・ブームに火をつけたというから、私も直接お世話になってきたことになる。


 それでもまだまだ全身全霊で走り切った実感がなく、それを得る前に残酷にも、彼は不治の病の宣告を受けた。エックス線写真からすると、内臓の悪性腫瘍だろうか。そこへ、ケンヂからの招集がきた。「このマークを俺たちのもとにとりもどそう」。これで逆転トライが決められる、全身全霊で走り切れるとモンちゃんは考えて帰国した。

 サダキヨといえば屋上ならば、モンちゃんといえば新東京国際空港であろう。この物語では何か所かに、1997年にドンキーの通夜開けの朝、ドイツに戻るべく空港でケンヂたちと別れを告げている彼の絵、そして、2000年に病の身をおして、ケンヂの依頼に応じて帰国し、空港に降り立つモンちゃんの雄姿が、繰り返し描かれている。


 さて、ここまでの話を聞いたサダキヨは、「モンちゃんはえらいよ。自分の信念をまっとうしようとしている」と賛辞を惜しまない。モンちゃんは照れたか謙遜したか、あるいは本当にそう思っているのか分からないが、サダキヨの賞賛の言葉を否定して、血の大みそかは怖くて怖くて仕方がなかったと語る。

 そして「それを知ってか知らずか、ケンヂ、あの時こんなことを言ったんだ」とモンちゃんが語り始めたケンヂの言葉とは何だったのか、それは次回の話題にいたします。


 余談だが、昔の酒屋や飲み屋は、酒造メーカーの系列化に置かれているのが通常だったから、特にビールは今のように国内外のいろんな銘柄から選ぶことはできず、メニューには「ビール」としか書いてないのが普通でした。

 せいぜい瓶と生の違い、大と中と小の違いがあっただけ。学生時代に私がバイトしていた酒屋は、キリンしか売っていなかった。ドンキーの通夜の席で、モンちゃんが乾杯の音頭を取って飲んだビールはアサヒ。1997年のクラス会もアサヒ。

 ケンヂの実家、遠藤酒店は、モンちゃんの就職先と想定されるサントリーを売る店であった。その証拠となる絵は、第1巻の124ページに描かれている。すでに夜で酒屋は閉店しているが、看板や広告に同社の名を見ることができる。店の前で「ごめんくださーい」と挨拶しているのは、この夜の月面着陸をテレビで観るべくケンヂを訪問したドンキーの後ろ姿だ。


(この稿おわり)



そういえば菜の花畑の写真があったのだった。天草諸島大矢野島にて。(2012年2月27日撮影)



こちらは満開の桃、千歳烏山にて(2012年4月1日撮影)