おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

人工授精   (20世紀少年 第298回)

 万丈目の説得に成功して立ち去ろうとする高須を呼び止めて、万丈目は人工授精の件、すなわち高須が”ともだち”の子を産む計画を進めていいんだなと念を押している。高須の返事は、「ルールを作るのは、あなたでしょ」であり、万丈目の反応は「聖母さま」であった。

 人工授精というのは、端的に言えば男性器の替りに注射器を使う不妊療法である。通常は、性交では妊娠できない夫婦が用いる手段なのだが、万丈目は自分の上司と自分の女を「かけ合わそう」としており、高須は平然としている。ともに狂人と呼んで差し支えあるまい。明らかに人倫にもとる。


 医学と倫理の問題は難しい。人工授精でも妊娠できない場合、体外受精という方法をとることもある。今では新生児の50人に一人ぐらいは体外受精児だという新聞記事を読んだ覚えがあるので、珍しくもないし異を唱える人も少なかろうが、この方法が初めて使われたころは、私の若い時分だが、「試験管ベビー」と呼ばれていた。語感が良くない。おそらく当時は、違和感があったのだろう。

 近年では脳死の臓器移植や代理母が難題となっている。議論に議論を重ねなければならない。慎重に考えなければならない。放置すれば、クローン人間をつくり出したり、人間の遺伝子をいじってみたりという、山根のようなマッド・サイエンティストが続々と出てくるに違いない。


 繰り返すが、万丈目と高須の計画は論外である。ただし、当然、話の出所は”ともだち”本人であろう。少なくとも彼の協力なくしては、できない相談だからな。”ともだち”は、子を残そうとしている。なぜ、そこまでして子孫が欲しいか。他の動物や植物と異なり、人間はさまざまな理由で子供を欲しがる。

 武士は跡継ぎが欲しいから男の子を求めた。身分の低い貴族は願をかけてまで、高貴なお方に差し出す娘を欲しがったと、吉川英治著「新・平家物語」の第一巻に出てくる。農家や商家も職人も、後継者が必要だから、一昔前まではごく普通に養子縁組や婿入りが行われていた。今はそういう社会的要請がないというのも、少子化の一因になっているに違いない。


 一字一句まで正確に覚えていないのだが、松下幸之助は、「企業の経営者は、自分の子を自社の跡継ぎにすべきではない」と趣旨の発言をしていた記憶がある。理由は、勝れた経営者ほど多忙を極め、結果的に家庭を顧みず、したがって、ろくな子は育たないという強烈な論拠だった。松下さんは「政治家も」と言うべきだっただろう。

 ともあれ、”ともだち”の場合はどうなのだろう。本人が何も言っていないので推測するほかないのだが、宗教を例にとると、まず、後継者選びで揉める要因として、法統と血統の対立というものがある。教えを継ぐのか、血を継ぐのかで、出来の悪い弟子や子孫(失礼)の利害が対立する。イスラム教のシーア派スンニー派の対立も元をただせばこれらしいし、浄土真宗でも親鸞没後にこの種の騒ぎが起きた。


 ”ともだち”は普通の意味での宗教ではなさそうだが、単なる政党ではないことも確かであり、「教え」を継ぐ者を必要とするようなのだが、どうやら”ともだち”は血統を選んだらしい。この件については、「本当に人工授精なのか」という観点から、ずっと先でもっと考えたいのだが、とりあえずここでは人工授精が選ばれていることだけを確認しておきます。

 それにしても、血統ならば、キリコとカンナはどうなるのだ。キリコが反旗を翻したことは、”ともだち”はもちろん、万丈目も高須も他の者も知っている。また、カンナが、学校で荒れていることも知っている。それなのに、13番は「せいぼがこうりんする」という「しんよげんの書」の一節を、聖母はキリコだと読んだし、春川校長も、キリコを聖母とみなしている。でも彼らは他に血統を知らないから、当然といえば当然なのだ。


 校長の話の中に、カンナが”連れ戻される”という言葉が出て来たが、確かに、強引に連れ戻さない限り、キリコとカンナは”ともだち”の下に戻るはずがない。だが、そんな調子では、とても「せいぼがこうりんする」とは呼べそうもないし、それに「てんごくかじごくのどちらかをたずさえてくる」としたら、地獄の沙汰になるのは避けられそうもない。

 所詮、キリコに「こうりん」してもらいたいのは、彼女の存在そのものではなくて、ワクチン開発の能力、さらにいえばワクチンそのものが必要なだけなのだろう。少なくとも、フクベエ以外は。


 かくて、”ともだち”と万丈目と高須は、自分達の手で聖母を作ろうとしたのではないかというのが私の今の考えです。万丈目の「聖母さま」という発言は、そういう事情を反映してのものだろう。

 人工聖母さまの高須は、車で桃源ホームに向かった。ちょうど現場に着いた頃に許可が下りたとの連絡があり、彼女は「このホーム全体を”絶交”よ」という指令を下す。他人まで巻き込むなよな。


(この稿おわり)


夜明けのサクラソウ(2012年3月16日撮影)