おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

血の大みそか外伝   (20世紀少年 第295回)

 ちょっと昔に戻って第5巻の92ページ目、2000年の大みそかの夜に、一番街商店街で二人の若者と別れの挨拶をしたケンヂが、山形にいるはずのカンナを見て驚く場面が出てくる。

 そのページの下段左のシーンを反対側から描いた絵が、第11巻の14ページに登場する。バイクの二人が白山通り方面に去っていく姿が見える。永久の別れとなった。


 第5巻では、寝入ったカンナを背負ったケンヂが地下水道に戻って戦闘開始となるのだが、その間に、この叔父と姪が交わした会話が、カンナの回想という形で第11巻に収録されている。

 この記憶、そして、よみがえったケンヂおじちゃんの音楽が、カンナを再起させることになった。第11巻の表紙絵は、そのころのケンヂのライブの雄姿であろう。

 
 一人で山形から電車にいっぱい乗ってきたカンナに対して、ケンヂは「これから、この東京でどんなことが起きると思ってんだ」と肩を落としている。カンナはケンヂおじちゃん強いもんと元気だが、ケンヂは弱気で、強くない、怖くて仕方がないと正直に応えている。

 彼は仲間の前でこんな弱音は吐かなかったのだが、それは招集した仲間に対して、「地球滅亡の危機を救うなんて、くだならいガキの夢物語だ」なんて、今さら言えないという事情もあったろう。

 自分の弱さを語るにあたり、ケンヂはバンド時代のエピソードを引き合いに出している。死ぬまでやるはずだったバンドなのに、いつの間にかやめてしまい、それを人のせいにばかりしているという。具体的には、80年代の産業ロックがいけねえとか、ドラムスを他のバンドに引き抜かれたとか。


 このうち、後者については、ケンヂも少々、自分を責めすぎであろう。後に詳しく出てくるが、ドラムスを他のバンドに引き抜かれたのは事実であり、それはケンヂの弱さのせいとは思えず、ドラマー自身の意思によるものであり、それによってバンドが続かなかったのは、その3人でなければ、あのサウンドは出せなかったからである。

 他方の「産業ロック」については、もう若い世代には通用しない言葉だろうけれども、確かに論争があった。要するに、「売らんかな」のイージー・リスニング的なロックが、パンクと前後して広まった現象・ジャンルを批判する用語である。ケンヂは、この時流に乗らなかった。そしてバンドを続けられなかった理由を、産業ロックの跋扈のせいにしたと、ケンヂは自嘲しているのだ。


 この辺りは主観の問題なので、カンナも私も言葉の掛けようがないのだが、いずれケンヂたちには起死回生のチャンスが来るので、それを待とう。それまでリーゼントに革ジャンだったビートルズを、ブレザーとマッシュルーム・カットに替えたのはブライアン・エプスタインの営業方針だが、それはそれ、ロックはロックでさえあればよいことを、ケンヂは知っているはずなのだ。

 バンド活動が低迷していたころ、ケンヂはドラッグを勧められたことがあるという。ケンヂは、「そんなもんなくても、俺はすごい奴になってやる」と言って皆に笑われたらしい。実際、多くの若くて才気あふれるロック・ミュージシャンがドラッグで命を落とした。


 その言や良しだが、結局、彼はバンドを解散してギターを売り払い、実家に戻って遠藤酒店を継いだ。その時期がよく分からない。父ちゃんが亡くなったときは、キリコが後を継いでいる。ケンヂが実家に戻ったとき、すでにキリコは、「どこの誰だか分からない男」と、どこかに消えていたのだろうか。不明である。

 「何もかも忘れちまった。いや、忘れようとした」とケンヂは語る。だから、カラオケも封印したのだろう。そして、「バンドやめようとしてたころ、今みたいだったら、やめてなかったかな」という話の展開が良い。

 「おかしいよな、最近になってまた聞こえ出すなんて」とケンヂが挙げている「ほうきギターで弾きまくっていた曲」は、いまや耳を澄ますだけで聴こえてくるらしい。レコードもCDも要らない。すべての音楽ファンは、ケンヂの気持ちがよく分かるはずだ。


 例としてケンヂが挙げているのは、山口とスパイダーさんに笑われたローリング・ストーンズの名曲、「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」。オッチョに教わった1969年のロック・フェスティバル「ウッドストック」で、ジミ・ヘンドリクスが披露した「パープル・ヘイズ」。私がロサンゼルスの野外劇場で聴いたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」。

 3日間も続いたウッドストックの最終日、最後の出演者として、ジミ・ヘンドリクスはそのステージに立った。映像を見ると、すでに観客は立ち去ったり疲れ切っていたりと荒涼たる景色が広がっているのだが、ジミ・ヘンドリクスは客の動向など意に介さず、何を考えたかアメリカの国歌「スター・スパングルド・バナー」をギター一丁で聴かせたのに続いて、「パープル・ヘイズ」を演奏している。


 「これが俺の血と肉だった。これが俺の成分表示だった」というケンヂの言葉を思い出したカンナは、同じことを試してみる。はたして、ケンヂおじちゃんの歌は、壊れたカセットの力を借りなくても聴こえてきた。3歳児のカンナに語りかけたケンヂの「俺は無敵だ」という放送室以来の決め言葉がよみがえる。

 春川校長の車の無線から聞こえた友民党からの通報内容と、別行動中の不良少年の一人、ツトムからの報告により、カンナはサダキヨとコイズミが2000GTに乗って、ツトムの近くにいることを知っている。そこに連れて行けとカンナは言った。車内では主客転倒して、入居中のご老人の皆さんには大変な迷惑となる騒ぎが始まる。


(この稿おわり)


ニューヨークだけだったかと思いきや、熊本にもある「A‐Train」。
A列車で行こう、天草に(2012年2月25日撮影)。
当時、デューク・エリントンは、A路線のそばに女がいたと、本人が語ったインタビュー記事を覚えている。