おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

新しい先生  (20世紀少年 第277回)

 第10巻の第4話「新しい先生」に、サダキヨ先生が出てくる。素敵な後任を期待していたトモコさんには「ダメだ、全っ然、さえないわ」と言われるし、恐喝されて(ここまでくると強盗か)倒れている少年を見て涙を流しては「見てたのに止めてくれなかったの?先生なんで泣いてんの」と訊かれるしで、残念ながら颯爽と登場したとは言い難い。

 ともあれサダキヨは、ほとんど正体不明のもう一人の”ともだち”を除けば、最後に登場する重要人物である。これまでの彼は、バーチャル・アトラクション(VA)の中で、あるいは、誰かの回想シーンの中で、お面を付けた少年としてしか出てこなかったのだが、高校の英語教師として素顔もちゃんと出している。ただし、コイズミにとっては「冴えない」どころの問題ではなかった。VAの中でお面を外して見せた少年時代の”ともだち”の顔が、その胴体に乗っかっていたのだ。


 昨年の大震災や、その前から社会問題になっているドメスティック・バイオレンス等に関連して、PTSD(外傷後ストレス障害)という精神疾患の用語をよく耳にするようになった。恐ろしい経験を想起、再体験し続けるという怖い病気らしい。トラウマなどという、おどろおどろしい言葉も日常用語になってしまった。

 しかし、われわれは専門用語を誤用、乱用している可能性がある。先日、精神科医の講演で聴いたところによれば、PTSDにおいては、基になった経験の際と同様の恐怖が繰り返し蘇るものであって、時の経過とともに恐怖が和らぐようなものは、PTSDとは呼ばないと聞いた。


 また、アルフレッド・アドラーは、トラウマとは自分でこれがトラウマだと決めつけるためにトラウマとなるという趣旨のことを書いているらしい。さらに、「夜と霧」で名高い、ナチス強制収容所の生き残り、ピーター・フランクルは、「後まで残る心的外傷という考えは、根拠薄弱であると述べている」そうだ(以上、岸見一郎著「アドラー心理学入門」より)。

 他方で、大震災から間もなく1年が経過するが、かえって震災直後や半年前よりも気力の衰えを訴える人が少なくないという報道がある。人の心は複雑なのだ。

 

 サダキヨ先生の顔を見たときのコイズミの反応は再体験どころではなかった。VAでの彼女の経験は、謂わばお化け屋敷的な虚構の怖さに過ぎないのに、それが現実に出現したときては、再体験どころかもっと遥かに恐ろしかったに違いない。しかも、その教師が叫び声を挙げる彼女に近づいてきたので、とうとう気を失ってしまったのであった。保健室送り。

 ところで、サダキヨ教諭の赴任は偶然ではない。少し先に跳ぶが、春川校長がカンナに語るところによれば、「思ったよりも早く佐田清志先生が現れて、あなたと話がしたいなどとおっしゃるものだから、あの方も博物館長という肩書をお持ちで忙しいのに...」ということらしい。校長、なんとなく迷惑そうである。


 サダキヨが、カンナに会って話したいという意思を有していたことは、のちの彼の言動からも明らかである。それに、彼はコイズミがVAの中でお面の下の顔を見たことを部分的ながら知っていて、コイズミにそう語っている。彼は意図的に、コイズミとカンナの学校に赴任してきたのだ。まさか、エロガッパを冤罪で放逐したのではないと思うが...。

 校長は一応、サダキヨについて敬語を使っているのだが、いかにも邪魔そうな感じであるし、第11巻では、万丈目も高須もはっきりとサダキヨを小馬鹿にしている。博物館に館長を迎えにくるドリーム・ナビゲーターの連中も然り。”ともだち”とは小学校以来の旧知の間柄でありながら、どうもサダキヨは尊敬も歓迎もされない存在らしい。


 しかし、彼は古株としての権威で、後任教師としての赴任を強行したのか? そんなことを、よくまあフクベエが許可したものだ。カンナとコイズミの監視なら、校長と高須という強力なタッグが現地要員として頑張っているし、実際、サダキヨはそこに割り込んで混乱要因になったのだ。なぜこういう人事になったのか、私には分からぬ。

 何はともあれ、サダキヨは登場した途端、結果的に大事な仕事をした。それまで、すれ違いだったコイズミとカンナが、ようやくまともなコミュニケーションを交わすことになる。放課後の保健室、ツイン・ベッドの上。


(この稿おわり)


近所の公園にて。幻のライ魚か? (2012年2月4日撮影)