おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

脳内メモリー   (20世紀少年 第252回)

 前回の続き。強制終了に関する警告文中の「脳内メモリー」とは何か。コイズミの研修場面に限らず、第14巻のヨシツネたちの侵入時にも、「21世紀少年」でケンヂがプレーヤーになるときも、脳内にシリコンやら金属やらでできた、メモリー・チップのようなものを挿入するがごとき場面は出てこない。

 メモリーの外見はどうでも良いが、確かに考えてみれば、コイズミたちがバーチャル・アトラクション(VA)に「入る」ときに使っているアイマスクとヘッドフォンを組み合わせたような装置(仮に、ヘッドギアと呼ぼう)と、通常のバーチャル・リアリティーの装置とは情報伝達の機能が違うはずだ。前者は双方向、後者は一方通行。


 通常のバーチャル・リアリティーの装置とは、たとえば第11巻の213ページで、大福堂製薬の戸倉の長男が夢中になっているゲームのように、ゲーム機からプレーヤーへの視覚情報・聴覚情報はヘッドギアを通じて送られてくるが、その反応は手足の運動により別の回路を経て逆方向に機械へと伝わる。長男の脳も体も、すべてゲーム機の外部にあるのだから当然です。どんな機械だってそうだ。

 しかし、VAは違う。プレーヤーの精神は(思念といっても、知覚といっても良いが)、VA内に3D技術で再構成された擬似的な自分に宿る。とはいえ、脳が物理的に移動するわけではないから、実際には、VAのシステムとプレーヤーの脳は、ヘッドギアを媒体として双方向に情報交換しているはずである(と、思うんだ)。


 それで正しいとすると(強引、強引)、コイズミの網膜と鼓膜だけでは、入力はできても出力はできまい。あのヘッドギアには、コイズミの脳と直接、情報をやりとりできる電導体ようなものがなければならない。そして、強制終了すると、それに高電圧等の過度な負荷がかかり、プレーヤーの脳に深刻なダメージを与え得る。まあ、私にできる推測はこんなもんだ。

 ヨシツネが悩んでいる間にVAで進行している事態は次回に触れるとして、ともだちランドに不正侵入しているヨシツネたちには時間がない。巡回の警備員がいるらしく、そんなのに見つかったら万事休すである。ヨシツネは、ケンヂやオッチョに、隊長としてどうしたらいいんだと、独り言のように訊いているのだが返事はない。


 血の大みそかの夜。今ここでケンヂが巨大ロボットを大爆発させたら、爆風でまた大勢の死者が出るかもしれない。大晦日新宿駅は夜中でも帰省客や初詣客で混んでいるだろう。きっと追加の犠牲者が出る。そして、ケンヂが実際に採った選択肢は、そして置き去りにされなければオッチョも異論なかったであろう選択肢は、それでも”ともだち”を葬り去るという決断だった。

 すでにヨシツネは、コイズミが”ともだち”の顔を見たら殺されると確信しており、かつ自分や隊員たちの安全も確保しなければならないのであれば、背負うべきリスクと背負いかねない悲しみが如何に巨大であっても、やはり「はい」を選ぶしかなかったように思う。そして、彼はそうした。では、そのときコイズミはVA内で何をしていたのだろうか。以下次号。


 追記。VAとプレーヤーが技術的に、どう「つながっている」かは、私には想像もつかないが、これを書いていて思い出したのはウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」である。この作品と「ハオペリオン」により、私のSFの読書は終わってしまったと言い切ってもよい。

 やや傲慢な物言いになるが、これ以上の作品が出てくるとは到底思えなかったし、その後、これらを凌駕するというようなSFの新作の評判を聞かない(私が知らないだけかもしれないけれど)。


 そうこうするうちに、現実の科学技術がおそろしく進歩したため、ますますSFの新境地開拓は困難になったしまったようだ。でも、あきらめている訳でもない。きっとまた、とんでもない奴が出てきて、とんでもないのを書くだろう。

 週刊プレーボーイの取材で、「もう、ローリング・ストーンズビートルズのようなバンドは出てこないのでしょうか」と訊かれたロン・ウッドは、きっぱりと答えている。「冗談じゃない。今頃どこかで、一所懸命、練習してるさ」。こういうふうに若者を煽るのも、中高年の大事な役割であることをロニーは教えてくれている。


(この稿おわり)



私は冬のケヤキの枯れっぷりが好きです。
(2012年1月12日撮影、開成高校の裏にて)