おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

リンゴ・スターの幸運    (20世紀少年 第219回)

 タイトルのとおり、脱線ばかりで済みません。第7巻第4話の「夢の展覧会」は、ショーグンが角田氏に、大阪万博の説明をするところから始まる。「ジミヘンが死に、ジャニス・ジョプリンが死に、ビートルズが解散した1970年、そんな年に日本では”万博”で異様なまでに盛り上がっていた。」のである。

 このロック・スターたちの似顔絵が描かれている。作者には申し訳ないが、ジャニスはあまり似ていないと思う。ジミは普通か。他方、映画「Let It Be」のセッションのころと思われるビートルズの絵は上手い。特に、リンゴ・スターの出来栄えは、私も無数にリンゴの絵を観てきたが、最高級と呼んでいい。

 「リボルバー」のアルバム・ジャケットにクラウス・ブアマンが描いたイラストよりも、あるいは、アニメーション映画「イエロー・サブマリン」に出てくる彼の絵よりも、はるかに本人の持つ独特の雰囲気を良く伝えていると思う。


 先日、数年前にアテネバチカンに旅行したときのことを話題にしたが、その途上でフィレンツェにも寄っている。宿泊したホテルの部屋は、「Norwegian Wood」風の素敵なロフト・スタイルで快適だった。このホテルのフロントで、ある朝、英字新聞を読んでいたとき、「Luck of Ringo Starr」という見出しが目についた。記事の内容は、どこかの誰かが極めて運が良かったというだけの、大した内容ではなかった。

 とうとう諺のように使われるまでになったのかと思った。リンゴ・スターが如何に幸運だったかについては、ある程度ビートルズのことを知る人には説明不要であろう。EMIと契約してから最初のシングルを発売するまでの間に、EMI側の要請とかグループ内の人間関係とか理由は諸説あるが、ビートルズはドラマーを替えた。


 リンゴの前任者、ピート・ベストはファンの人気も高くて、私は当時のファンの娘たちが「Pete is Best」というプラカードを掲げて解任に抗議するデモを行っている写真を見た覚えがある。ジョン・レノンから誘いの電話を受けたとき、リンゴは公共職業安定所に行く予定の日だったという話を聞いたことがあるが、真偽の程は定かではない。冗談ばかり言う連中だったからな。

 ビートルズはまだセミプロだったころ、このピート・ベストの自宅にあった地下室を、彼の母から借りて練習していたらしい。その母が記者に怒りをぶつけるかのごとく取材に応じた記事も読んだ。それは腹が立つだろう。村上龍氏によれば、「成功したと呼べるのはビートルズだけ」というバンドから、恩を仇で返されたのだから。

 リンゴはビートルズで最年長のメンバーとなった。ジョンと同い年の生まれだが、誕生日が早い。リンゴの母のインタビューも読んだことがあるが、リチャード(本名)が生まれた日だったか直後に、生まれ故郷のリバプールナチス・ドイツの空襲を受け、母は幼子を抱き抱えて逃げ惑ったらしい。やはり幸運にも爆弾は母子を避けた。


 1966年にビートルズは変った。楽器も替え、容貌や服装も様変わりし、演奏も曲想も歌詞も格段に上達した。特に、ジョン・レノンはポップ・スターから、大変人になってしまった。

 わずか前まで、「Girl」や「In My Life」を歌っていた男が、「Rain」、「Tomorrow  Never knows」、「Strawberry Fields Forever」、「A Day in the Life」を作るようになった。

 この4曲を例に挙げたのは、私なりの理由がある。リンゴのドラムが、抜群に冴えているという共通点があるのだ。ストロベリー・フィールズはシングルで発売されたとき、当時のイギリスの音楽評論家から、「この曲でドラムスを演奏しているのは、リンゴではない。彼がこれほど上手く叩けるはずがない」と言われたらしい。


 すべてのバンドに共通して言えるかどうか知らないが、ロック・バンドにおけるドラマーの重要性というのは、ローリング・ストーンズの半世紀にわたる栄光の歴史においても、ジョン・ボーナムを失って解散のやむなきに至ったレッド・ツェッペリンにおいても明らかではなかろうか。

 ジョージ・ハリスンのギターについては、初期とはいえ、ジェフ・べックに「ビートルズのリード・ギターはひどい。できることなら、代わってやりたい」とまで言われたそうだが、リンゴの演奏力を悪く言う人は少ないように思う(歌唱力については、世界中のプロの歌手の中で最も下手という評価を読んだことがある)。また、リンゴはビートルズが残した映像作品のうち、「Let It Be」以外の全てにおいて、主役を立派に務めている。


 私はあまりテレビを見るほうではないので(海外も長かったし)、リアルタイムでリンゴの姿をテレビで見た記憶は2回しかない。最初は、解散直後。当時、実家では近所や親戚と一緒に、伊豆半島などに小旅行をするのが唯一と言ってよいほどの家族総出の娯楽だった。1971年4月に引っ越して、この地縁血縁の付き合いは途絶えてしまった。

 そんな旅行中の夜、みんなで夜遅くテレビを見ていたところ、中経か録画かまでは覚えていないが、リンゴが海外の音楽番組に一人で出てきて拍手喝さいを浴びていた。一緒にテレビを見ていた大人たちが、「リンゴだ」、「ビートルズ、解散しちゃたんだよな」と話していたのを覚えている。


 2回目はもう少し記憶も鮮明で、すでに大のビートルズ・ファンになっていた十代半ばに、リンゴ・スターが来日して、NHKの「ニュースセンター9時」に生出演したときのことである。キャスターは初代の磯村さんであった。リンゴは終始、例によって上機嫌で、最後の立ち去り方もユーモラスであった。

 ただ、磯村さんから、あなたにとってビートルズとしての8年間はどんな印象か、といった趣旨の質問を受けたとき、リンゴは、映画でもたまに見せる、ちょっと淋しそうな真顔に戻って、「夢のようでした」といつになくシンプルな返事をした。その表情のイメージが、この浦沢さんの絵に再現されている。


 1970年、ポール・マッカトニーの脱退宣言により、事実上、ビートルズは解散した。仲良く別れることすらできず、ポールは財産の分配に関する訴訟まで起こした。奥さんの父親が弁護士だったことも影響したかもしれない。法廷に呼びだされた感想を訊かれて、リンゴは「ポールは僕たちのためになると思って、こういうことをしているのだろうかと考えていました」という意味のことを語っている。きっと、この表情を浮かべながら法廷に座っていたのだろう。



(この稿おわり)



これから、ときどき、近所にある国立西洋美術館の常設展をご紹介します。
歩きながら撮ったのでちょっとピントが外れていますが、私の一番のお気に入り。
ルノアールアルジェリア風のパリの女たち」
(2011年12月24日撮影)