おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

オッチョおじさんへの手紙    (20世紀少年 第201回)

 脱線ばかりしていないで物語に戻ろう。オッチョが刑務所内で角田氏から、カンナが警察に追われているらしいという由々しき情報を得て心配しつつ、恩人に「ショーグンと呼べ」と大変偉そうに命じていたころ、カンナは何をしていたかというと、隣のページで寝ている。

 第6巻の第6話「追い詰められて...」は、文字どおり、悪徳警察官に追い詰められているカンナとブリトニーさんとマライアさんが、前出の倉庫と同じものかどうか分からないが、倉庫の一画で眠っている場面から始まる。カップ・ラーメンやペット・ボトルが転がっているから、相当、厳しい状況にありそうだ。


 カンナは文机替りに使っていた木箱に突っ伏しているが、手紙を書いている途中か、書きあげたところで疲れて寝込んでしまったらしい。封筒の宛先は、海ほたる刑務所、住所は千葉県木更津市。封書の文面は「前略 おじさん 元気ですか」で始まっている。

 幼くして両親を亡くしたユキジも気の毒だが、カンナとて悲惨な幼年期を過ごしている。この時点でも、彼女の肉親は山形のおばあちゃんだけ。他に身近で信用できる大人はユキジだけ。学校でも孤独。わずかに珍さんと二人のニューハーフとの交流があるのみ。オッチョおじさんの存在は、カンナの数少ない心の拠りどころであったのだ。


 手紙の文中には、すでに数百通も出したと書いてあるから、彼女は手紙が書けるような歳になってから、ひたすら返事を待ちつつ、オッチョおじさんに手紙を出し続けていたに違いない。カンナは検閲や没収を心配しているが、案の定、オッチョがこれらを読んでいないことは、すでに明らかになっている。

 また、警察官の殺人や警察に追われていることまで書かれているのだが、この調子では、カンナは自らの居場所と行動を積極的に治安当局へ、こまめに報告しているようなものだ。不用心どころではないのだが、おそらくユキジとカンナは、自分たちが”ともだち”の正体や悪行を暴こうとしない限り、どうやら安全だということに気付いたのだろうか。


 それよりも疑問なのは、なぜカンナが海ほたる刑務所にオッチョおじさんが収監されているのを知っているのかである。もっとも、第8巻に出てくるとおり、落合長治が300年の懲役刑(300年とは、ちょっと長いよなー)に服していることは、コイズミが放り込まれた「ともだちランド」で全参加者に紹介されているので、機密事項ではない。

 他方、この後のユキジとヨシツネの言動からして、彼らがオッチョの生存なり所在なりを感知していたような形跡はない。300年では幾ら超人オッチョでも生きて出てくることはないし、そもそも海ほたる刑務所から脱走に成功した者もいないので諦めたのだろうか?それならば、人を観る目が無いというほかあるまい。

 
 それはともかく、「どうしたらいいか教えてほしい」というカンナの思いは、今回もおじさんには届かないだろう。でも大丈夫、もうすぐご本人がお越しになるから。それに、彼の闘志を燃え上がらせたのは彼女関連の情報なのだから、カンナが呼び出したようなものだ。

 思えば、街中でケンヂの歌を歌ったのも、それをユキジに叱られて家出したのも、ケンヂの曲をかけたのがきっかけでウジコウジオの関心を引いたのも、みなカンナの意志から起きたことである。カンナが常盤荘を選んだのも、漫画家と隣室になったのも、角田氏が独房でオッチョのお向かいさんになったのも、この世のすべては偶然だが、一連の偶然が意味を持つとき、人はそれを運命と呼ぶ。


 戦前の本だが三木清「人生論ノート」に、こういう一節がある。「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生をわれわれは運命と呼ぶ。(中略)人生は運命であるともに、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。」

 オッチョによれば、彼の人生に偶然はないそうだが、彼は三木に反論しているのではなく、人生が運命であることにおいて、二人の意見は一致をみていると思う。そして三木の言うとおり、運命的な存在であるオッチョは、カンナという最後の希望を持っている。こういう厄介な男を敵に回したのも”ともだち”の運命であった。


(この稿おわり)


上野寛永寺の紅葉(2011年12月4日撮影)