おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

誠実と正直     (20世紀少年 第199回)

 今回は、私にとっては大切な記事ですが、「20世紀少年」の筋とは全く関係が無い内容です。したがって、私をご存じない方々が小欄をお読みになっても、時間の無駄になるだろうことを予めお断りいたします。

 一番好きな日本語のことばを挙げよと言われたら、私は「誠実」を選ぶ。とはいえ、私は倫理学の徒ではないし、道徳好きでもない。それでは何故かと言うと、学生時代に「見るからに誠実やな、お前」と、一つ年上の大学生に言われたからである。一日だけの肉体労働のアルバイト先で、たしか休憩時間でのことだったと思う。


 その人とは初対面で、バイト中もほどんど話をしていない。それなのに、そう言ってくれたので本当に嬉しかったのだ。滅多に誉められることなどない青春時代だったということもある。ところが、きちんとお礼を述べた覚えがない。実はそれほど自分が誠実ではないことを知っていて、恥ずかしく感じる程度には、誠実だったのかもしれない。

 ちゃんとしたお礼すらしなかったくらいだから、お名前も伺うこともせず、今となってはどこの誰なのか調べようもない。だが彼のおかげで、私は誠実という言葉を見聞きするたびに、心が温まる思いがする。こんなありがたいことはない。深謝いたします。


 誠実という言葉の辞書的な意味を確かめてみると、「広辞苑」第六版には、「他人や仕事に対して、まじめで真心がこもっていること」とある。その日の私は、まじめに真心をこめて働いていた(少なくとも、そう見えた)のだろう。また、いくつかのデジタル辞書には、「私利私欲を交えず」という意味も加えられている。私利バイトでした...。

 ついでに、英語で「誠実な」という意味の形容詞を探してみると、「sincere」だけかと思っていたのだが、それに加えて「honest」とか「faithful」とか、その他いくつか出てくる。「honest」といえば「正直な」が通常の訳であろう。私は子供のころ家庭でも学校でも、「正直に言いなさい」と何度も叱られているので、正直とは嘘をつかないことだという印象を持っている。

 しかし、ここで広辞苑に再登場願うと、「正直」とは、「(1)心が正しくすなおなこと。いつわりのないこと。かげひなたのないこと。(2)率直なこと。ありのまま。(以下略)」などと説明されている。嘘つきではないというのは、ちょっと狭すぎる理解であった。これなら、誠実とも近い。


 英語版の「Wikipedia」には「sincerity」の項があり、それによると最初にこの概念を論じたのは、何とまあ遠い昔のアリストテレスであるという。彼の主著「二コマコス倫理学」に出てくるそうだ。多彩な分野で活躍した天才というと、多くの人はレオナルド・ダ・ヴィンチを思い起こすのではないかと思うが、アリストテレスも「一人総合大学」のようなお方である。

 私の哲学の恩師、中島義道先生によれば(どの著書か忘れてしまったが)、全ての哲学はアリストテレスの脚注と呼んでもいいかもしれない、というほどの斯界の先駆者である。自然科学も、当時のことだから間違いも少なくないようだが、本格的に研究しているし、アレクサンダー大王の家庭教師も務めたのだから大変な偉人なのだ。

 ところで、ネット情報によれば、アリストテレスが誠実について書くとき、古代ギリシャ語で「honestum」という言葉を使っているらしい。どうみても「honesty」という英単語のご先祖であろう。日本の研究者等も、「正直」では何となく子供っぽいので、「誠実」を使っているのであろうか。


 漫画「20世紀少年」に出てくる人々の中で、一番、誠実な人物はと問われたら、私はオッチョと答える。「誠実」という言葉が多くの人に想起させるであろう柔らかさや暖かさといったイメージと、オッチョの言動を重ね合わせるのには無理があると人は思うであろうか。むしろ、「率直」のほうが適切か。

 永井均著「これがニーチェだ」には、こういう一節がある。「人間は社会的に群棲して生存する以上、万人の万人に対する闘争をなくすように、平和な取り決めを必要とする。暗黙裡になされたこの社会契約こそが言語そのものの起源である。各人の一回性の個別的な体験の事実という本来は等しくないものを等しいとみなすことによって、言語で表現される一般概念が成立し...(以下略)」。

 言葉の辞書的意味とは、まさに「本来は等しくないものを等しいとみなす」ことに依る一般概念なのだ。他人に言葉で伝えるときは、その社会契約に従わなければならないが、私が心の中で「誠実」という言葉を味わうとき、それにとらわれる必要はないだろう。私の一回限りの個人的な経験を反映させても、ニーチェや永井さんには批判されまい。


 結局、私は一番好きな登場人物を、一番好きな言葉と結び付けようとしているだけなのだが、他人様に押し付けるつもりはないから、それはそれほど不適切な作業ではないと思う。彼がどれほど真面目に心をこめて働くかをみていけば、他の人も同意してくれるかもしれないと期待します。

 今年、東日本大震災を契機として、私の読書は従来の小説や歴史や自然科学から、哲学、思想、宗教といったものに変った。後者は私が大学生のころ好きだったもので、その後は仕事や遊びにかまけて、遠ざかっていたのである。それが震災と、あるいは老化もあってか、私の興味の対象として戻ってきたのだ。


 要するに私は、誠実と見てくれる人もいた若いころの己に帰ろうとしている。されど読書だけでは不足であって、実践が伴わなければ意味がない、とニーチェなら怒るだろう。とりあえずオッチョの真似をするという案もあるが、それは容易な道ではない。すぐに弾丸に当たりそうなタイプですし。

 真似はやはり駄目だな。ここに、若いころから私を捉えて離さないニーチェ箴言がある。彼の言うことは本当に厳しい。永井先生の前掲書から、ご本人による訳文を引用する。「世界には、きみ以外には誰も歩めない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら歩め。」(「反時代的考察」より)。では、歩むか。


(この稿おわり)

これも熱海の釣果。タイの仲間の幼魚かな。(2011年11月26日撮影)