おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ユキジトンネルとカンナトンネル (20世紀少年 第197回)

 絶叫中の漫画家角田の口を大きな掌で塞いだ男が、「静かにしろ」と言った声を聞いて、角田氏は相手が利き手の恩人であることを察した。どうやってこちらに来たのが訊いたところ、相手はその部屋にある二つの大きな穴の所在を示す。トンネルを掘って、ここまで来たのだ。鎖は関節を外して脱出するらしい。ご苦労さん。

 角田氏の部屋からならば構造壁を比較的、楽に突破でき、下水管も近く、いつも空室なので、脱獄の作業場に選んだのだという。角田氏は偶然、他の独房が満員御礼だったため、ここに連れて来られたそうだ。穴が見つかると困るので、針金騒ぎを起こしたと聞かされて、角田は自分が好意で救助されたのではないことを知る。しかし、相手も重要な脱獄道具を失ったのだから恨んではいけない。残るは擦り切れたスプーン一つ。


 相手の背番号は3であった。「いい背番号だろ。四番サードだ」と彼は自慢しているのだが、90年生まれの角田氏には通じない。確かにバーゲンセールよりはるかに素敵だ。2000年のプロ野球は、ケンヂがカンナに語ったとおり長嶋巨人が優勝し、そのとき監督の背番号は3に戻っているのだが、角田10歳ではピンと来なくても仕方がないか。

 何が幸せだと言って、1960年に生まれた私にとって、長嶋茂雄の全盛時代に間に合ったほどの幸運は他にあるまい。ほかにも、王と江夏、大鵬柏戸、ベレとベッケンバウアージャイアント馬場アントニオ猪木のタッグ、アベベとチャスラフスカ、数えれば切りがないほどに、スポーツが華やかだった時代に私は育っている。


 そして、背番号が代名詞になり切っている選手というのは、おそらく世界中に一人しかおるまい。当時、読売ジャイアンツ日本シリーズで覇権を争った西本幸雄率いる阪急ブレーブスには(西本さん、さようなら)、その豪快で暴力的なほどのラフ・プレーと外見から「赤鬼」と呼ばれたスペンサーという選手がいた。彼がこう言っている。「俺だってナガシマの試合だけは、金を払ってでも観たい」。

 かなり昔の話題だが、大島渚監督は巨人軍の依頼で、その練習風景を撮影したことがあった。球界の紳士であるジャイアンツの選手が、みな澄まし顔で素振りなどしている中で、長嶋はカメラを見つけるや走って来て大島の目の前でスライディングを決めてみせ、「大島さん、何でも言って下さい。何でもやりますから。」と言って去っていく。

 ネキスト・バッターズ・サークルでは、多くの次打者が、のんびり素振りをしたりガムを噛んだりして緊張を解こうとする者が多いが、長嶋は片膝を地に着け、ひっくり返したバットを肩に掛けて、王貞治と敵軍エースの対決を、獲物を狙う猛禽類のごとく見詰めている。サヨナラ・ホームランを打つと、スキップで本塁に戻ってくる。



 さて、3番さんは漫画家角田に、「ユキジトンネル」から鉛筆を紙を取り出させて、トンネルの入り口を隠すための壁と同じレンガの絵を書くように命ずる。最初に掘ったユキジトンネルは構造壁に阻まれて外に出られず、やむなくこちらの部屋まで通したところで終った。ここから外に出るための別のトンネルは、あとで分かるが「カンナトンネル」という。丹那トンネルと一字違い。

 脱出用のトンネルに固有名詞を付けるという発想は、後に二人の間で話題になる映画「大脱走」から借用してきたものであろう。あの映画では、トンネルが一つ見つかって、囚人が一人、銃殺されるのだが、訊けば3番さんは二週間に一度のペース、14年間に300回以上、脱獄に挑戦し、失敗したのだという。


 しかも、角田氏にとっての凶報は、下水管から抜け出したとしても、東京まで5キロ、木更津まで10キロの海がある。さらに、訊かなければ良かったのに、これまで協力した人はいたかと尋ねたところ、「みんな死んだ」とあっさり言う。壁の絵も含め、この先3番さんが示す脱出のための数多くの知恵は、無数の先人の犠牲の上に成り立っていたのだ。

 トンネルを掘りながら、3番さんは「今、シャバの様子はどうなっている?」と質問してきた。角田氏は、世間のことはあまり知らないと述べたうえで、周囲の人々の話題を提供するのだが、今度はオッチョが驚く番であった。それにしても、1番さんと2番さんは誰で、どうなったのだろう? 落合が3番だから、ア行の名字かな。


(この稿おわり)


熱海のユキジトンネルとカンナトンネル。(2011年11月25日撮影)