第5巻の172ページには、歌舞伎町警察署の取調室Fで、遠藤カンナを尋問している蝶野刑事の姿がある。どうやら、カンナが中華料理店で働いたため、彼女が中国人で、しかも不法滞在ではないかと疑っているらしく、国籍を尋ねている。頬のバンド・エイドは、目の前の娘にゲンコツで殴られた傷痕だ。
カンナは国籍も名前も答えない。腹を立てた刑事が帽子を取り上げると、「大切な帽子なんだから返してよ」と叫んで暴れ出す始末。しかし、その持ち物から本名と身分が分かって、カンナは無罪放免となった。
この帽子がなぜそんなに大切なのか、一切説明はないが、まず間違いなく血の大みそかの路上ライブの際、変装のためケンヂがかぶっていた野球帽であろう。色は白です。第6巻の表紙絵でカンナがかぶっている。もっとも野球帽ではなくて普通の帽子かもしれない。変装用に無地のものを選んだのだろう。
このあと、居合わせた警察官の間では、別件についての会話がある。昨夜、蝶野刑事が嘔吐した殺人事件の目撃者が現れ、犯人らしき者が警察官の制服を着ていたと証言したらしい。先輩に、「ニセ物に決まってんだろ」と言われた蝶野刑事は、「そうですよね、本物の警察官は正義の味方ですもんね」と言いながら、カンナがかぶっていた帽子を見降ろしている。
蝶野刑事にピカブーを買ってくれた祖父、チョーさんの同僚だったヤマさんは、本物の警察官だったが、正義の味方ではなかった。カンナの母が”ともだち”を訴え出た相手の警察官もヤマさんで、やはり正義の味方にはなってくれなかった。蝶野刑事も、このあと過酷な現実に直面することになる。
その帽子を返却するため珍宝楼を訪れた蝶野刑事だったが、珍さんによれば、カンナは出前に出かけたばかりで不在であり、さらに店の窓ガラスの損害賠償金として、金100万円(慰謝料込みかなー)を請求されて刑事は逃げ出す。そして、”ともだち平和祈念館”に出向いた。そこに立つ慰霊碑には「伝説の刑事、チョーさん」の名前が刻まれている。
戦没者や被災者の慰霊碑は世界中、至るところにある。日本では沖縄戦のそれが有名だが、私が初めてその種のものを見たのは、1990年前後、一人旅したアメリカ合衆国の首都、ワシントンD.C.のベトナム戦争の死者の慰霊碑だった。そういうものが、そこにあることさえ知らなかったが、ザ・モールからアーリントン墓地に行く途中で迷子になって、偶然、行き当たったのだ。
石碑の前には、押し黙った十数名の人々が立っていた。泣いている老夫婦、碑に紙を押し当てて鉛筆でなぞりながら拓本を作ろうとしている黒人の男。氏名の場所を記してあるらしい冊子を手に誰かの名を探している者。誰かの名の下の地面に、小さな星条旗を立てている男。
いつでもどこでも陽気なアメリカ人たちだが、あのときほど悲しそうな人々を私は見たことが無い。アーリントン墓地にわたる橋の上を歩きながら、私は涙をこらえた。
さて、蝶野刑事が祖父を偲んでいたところに、出前用のジュラルミン・ケースを下げたカンナが何故かやってきた。敵意丸出しで立ち去ろうとするカンナに、刑事は自分がここに来た理由を伝えている。五十嵐長介、伝説の刑事チョーさん、自分の誕生日にプレゼントを買ってくれたのは定年の1週間前で、その日が命日になった。
慰霊碑の「五十嵐 長介」の名の上と下に、「長崎 尚志」と「戸叶 研人」の名がある。この二人の氏名は後に出てくる。第8巻のバーチャル・リアリティーの中で、1971年8月28日の世界に入り込んだ小泉響子が、ジジババの店の横の壁に見つけたポスターの映画「熟れ過ぎた人妻 浴場のわななき」の監督と脚本である。
気の毒に、二人とも名の売れた芸術家でありながら、血の大みそかで亡くなったのだろう。ちなみに、「21世紀少年」下巻の単行本では、同姓同名の長崎さんが「プロット共同制作」、戸叶さんが「編集」の一人として名を連ねているが、2008年刊行なので別人である。
母方の祖父が細菌兵器で命を落としたという刑事の話は、凍りついていたカンナの心のどこかを少し溶かした。「俺もいつかチョーさんて呼ばれる刑事になりたいんだ」と語りながら将平君が帽子を返すと、彼女は素直に「ありがとう」と受け取り、「いきなり殴ったりしてごめんね」とつぶやいて去っていく。
第8巻の第3話に描かれている「で、ケンヂおじさんはどうなったの?」で始まる二人の会話は、この場面の続きかと思っていたが、どうやら違う。カンナは気が変って引き返したのだと考えていたのだが、第8巻では蝶野刑事の頬に絆創膏がないし、カンナも出前用の容器を持っていない。確かに、もしもこの時点で”ともだち”の話を聴いていれば、これからの蝶野刑事の言動はもっと慎重になったはずだった。
(この稿おわり)