おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

友達なんかじゃない     (20世紀少年 第171回)

 イジメ問題が、この物語の重要なテーマの一つであることは間違いがない。多種多様なイジメが描かれている。

 最初に出てくるのは、ヤン坊マー坊による無数の暴力行為である。これはヨシツネやケンヂにとって、生涯「ゼーッタイ許さない」ほどの怒りの思い出となる。だが、かつて日本中こんなことは当たり前だったのであり、実際、被害者の人格をひん曲げるような心の傷は残していない。加害者もすっかり忘れているが。

 気の毒なのは、サダキヨに対する集団暴行である。ヤン坊マー坊は少なくとも二人だけで何人もの相手と戦っているのだから、まだしも喧嘩と呼べるかもしれないが、サダキヨは至ることろで、複数の相手に暴力を振るわれ、ときにはお小遣いまで撒き挙げられている。


 さらに陰湿なイジメは「無視」であろう。その被害者は、再びサダキヨであり、そしてもう一人、ジジババの店で万引き犯の汚名を着せられたまま、暴力と無視の両方の被害に遭った「もう一人のナショナルキッド」である。後者については後に論ずるとして、サダキヨに対する無視は小学校時代のフクベエによるものと、中学校に入ってからの周囲によるものがある。

 ただし、小学生時代のフクベエによる無視は、正確にいうと、仲間外れや絶交という古典的な方法ではなく、一対一のもので、その様子は第16巻の35ページ目に描かれている。万博に行けないフクベエは、その腹いせであろうか、一方的にサダキヨに対して、こう云い捨てている。


 「隣の学校でイジメに遭って、今学期に僕らの学校に転校してきて、それでもやっぱりイジメられてるような気持ち悪い奴なんだ、おまえは」。これだけでも、酷い言い草だが、この程度のことは、私の子供時代でも珍しいことではなかったのではないか。少なくとも、私は平気でこれくらいのことは言っていた(当時の誰か、覚えていたら、ごめんなさい)。

 しかしそれに続くフクベエのセリフは常軌を逸している。「僕は、そんなお前と一緒にいてやってるんだぞ。この僕がだ。”ともだち”と呼んでもいいって言ったけど、まだ友達なんかじゃないからな」。

 フクベエ少年はこの前のシーンで、サダキヨが自分を服部君と呼ぶのを拒否し、”ともだち”と呼べと強制している。それに加えて、呼び名こそ”ともだち”であっても、あくまで中身は本物の友達ではないという詭弁を用いている。哀れなサダキヨは反論もできなかった。


 さて、第7巻に戻り、フクベエはハットリ君のお面の男を、サダキヨ且つ”ともだち”と決めつけて、「俺への復讐なんだろう? あの時の恨みなんだろ?」と問いかけ、さらに、「おまえへのイジメがひどくなったとき、おまえは俺にこう言ったよな。これからも友達でいてくれって」。

 「でも俺は、お前に対するイジメが、自分に飛び火するのがこわかった。だからこう言った。ふざけるなよ、俺はおまえの友達なんかじゃない」。血の大みそかの夜、この昔のやりとりを知らないケンヂに対して、フクベエはなぜ、こんな昔話を持ちだしたのであろう。


 フクベエのケンヂに対する複雑な感情は、第17巻以降で触れたい。ここでは、フクベエはむしろサダキヨに対して(私の推測どおり、相手がサダキヨであれば、ですが)、昔ながらの脅迫を繰り返しているように思える。僕の言うとおりにすれば、友達になってやる。お前には、他の友達などいない。

 弱い者が一人でいるとイジメられやすいことを、フクベエはよく知っていた。だからこそ、似た者同士の集団を作ることになったのだ。そして、サダキヨが陥れられられたこのマインド・コントロールが解けるのは、まだだいぶ先のことである。女子高生2人のお世話になるのだから、少しは長生きして良かっただろう。


(この稿おわり)



ちょっとピンぼけの野菊。田端駅前にて。
(2011年11月16日撮影)