第4巻の132ページ、オッチョが新東京国際空港に降り立って、顔のバンソウコウをはがしている。ムエタイの使い手と戦ったときの傷が癒えたらしい。このわずかの間に彼の人生は激変してしまった。
この空港では3年前、ユキジが税関で犬と共に働いていたのだが、後に彼女が言うところによれば退職し、じいちゃんが残した接骨院を経営しながら、良縁を断りつつ決戦の日に備えていたらしい。
空港の外で、警官がオッチョに職務質問をしようとして揉み合いになった(そりゃ、怪しげだもんな)。やむなくオッチョがパスポートを取り出そうとしたとき、バンコクで死んだ警察官が残した”ともだち”マークのバッヂが転がり落ちて、警官が慌てて敬礼している。
今や友民党も連立与党だからな。オッチョの名は、すでに万丈目らに知られているはずだから、パスポートを見せたら大変なことになっていたかもしれない。チョーさんと同僚の執念は、その持ち主たちが死して後も、ここで一人の重要人物を救ったのだと考えて良い。
この物語は、1997年までは東京のどこでの出来事なのか、慎重に覆い隠されていたのだが、2000年夏以降は、はっきりと地名が出て来る。オッチョが訪れたのは本人に最も似つかわしくないかもしれない渋谷の繁華街であった。東急の109ビルが見える。ガングロのねえちゃんたちが歩き回り、多くの若者がケータイで喋っている。
オッチョが摺れ違った中年男も携帯電話で部長と話をしているのだが、この男性は横断歩道を渡れなくて困っている老女を笑顔で手助けし、友民党の者ですと言い、やっぱり立派だわと感心されている。どうやら、インチキ政党のくせに評判がよいのだ。
私がカンボジアの駐在から本帰国したのは2000年1月だから、オッチョの帰国の半年ほど前になる。ガングロというのは噂に聞いていたので、職場でどこに行けば見つかるかと訊いたところ、最近は下火になってきたが原宿あたりに行けばいると思うというアドバイスを得た。遠いので諦めた。
ケータイについては、カンボジアの首都プノンペンでずっと使っていたし、何せ当時の同国は発展が遅れ過ぎていて、固定電話が普及する前に携帯電話が入ってきたという、周回遅れでトップと並んだような有り様だった。
ちなみにカンボジアには3年8か月の駐在で、当時の勤め先の人事慣行の中では比較的、長い方だったと思う。普通は3年ぐらいで、これが半年以上長くなったため、二つの騒ぎに巻き込まれた。
一つは、日本の総理として初めてカンボジアを訪問した小渕首相一行の手伝いをすることになったこと。その翌年に彼は気の毒にも急死した。もう一つは、コンピュータの「2000年問題」。終わってみれば、嘘のように殆ど何も起らなかったな。
オッチョは一人、街角の携帯ショップの前に立った。ここが指定された待ち合わせの場所だったらしい。渋谷が選ばれたのは、後になって分かるが待合の相手が渋谷で働いていて、しかも、指名手配されているため素顔で街中を歩けないという条件をクリアする必要があったからだ。はたして誰かが声をかけてきた。さて...。
(この稿おわり)
お彼岸が来ても、がんばって咲いてくれたハイビスカス。(2011年9月23日撮影)