おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

子供に先立たれるということ    (20世紀少年 第113回)

 翔太君が危篤との連絡を受けて、オッチョは日本に急遽、帰国したのであろうか。しかし、メイを救出したときに語った彼の言葉によれば、「俺は子供の死に目に会えなかった」のだ。もしかしたら、帰国せずに(つまり、帰国すら間に合わなかったまま)、タイ国内で訃報を受けたのかもしれない。

 市原弁護士がユキジに示した新聞記事には、「タイ駐在の商社マン行方不明 ジャングルで自動車事故か」とある。彼は息子を失った衝撃で動揺のあまり、車で走り回った挙句に事故を起したのか。その後で、石原弁護士の調査結果が正しければ、「1週間後に辞表を出してから、行方不明になった」のであろうか。


 私がカンボジアの首都プノンペンに駐在していたころ、前任者から引き継ぐ形で、カンボジア人の中年女性をメイドさんとして雇っていた。彼女は5人の子供を産み、そのうち3人にお会いする機会があった。当時いずれも十代で見目麗しく、礼儀もただしくて、きちんとした子供たちに育っていた。さすが彼女ご自慢の子供たちであった。

 あとの2人は幼いころ病気で亡くなった。栄養も医療も治安も悪かった当時のカンボジアでは、乳幼児の死亡率がアジアではトップクラスで高かったのだ。メイドさんはいつも笑顔を絶やさず、大声で笑い、楽しそうに良く喋り、働き者だったが、この夭折した2人の子供のことを語るときだけは、大きな声を放って泣いた。


 ついでに余話をもう一つ。30年くらい前の邦画。題名は忘れた。主役は若山富三郎で、一人息子だったか一人娘だったかに先立たれ、経緯を忘れたが、同じように子供を亡くした親御さんを探し出して語り合う日々を送る。その相手の一人が、藤田まことだった。藤田まことは2人いる息子の一人を失ったという設定だったと思う。

 若山富三郎は最後に、でも一人残っているから良かったですね、というようなことを言ってしまう。それが悲しみを薄めてくれるとでも思うのですかといった趣旨の一言を、藤田が涙をこぼしながら目をそらさずに語る。

 若山はしばし絶句してこうべを垂れたままという場面があって、子供どころか結婚すらしていなかった若造の私でさえ居ずまいを正し、背筋を伸ばして観た。そういう映画が昔は普通にあった。


 人の世は悲しみや苦しみに満ち溢れているが、おそらく、子供に先立たれるほど辛いことはないのではなかろうかと思う。今年の3月11日の震災により、多くの息子、多くの娘が、親御さんを残してこの世を去った。ただひたすらに心より、ご冥福を祈るほかはない。

 オッチョの場合は、息子が「人災」の犠牲になった。電話をとりつないだ同僚も動転していたのであろう、電話口で聞いたとおりを伝えてしまった。自分の心は、そのときに死んだと決めて、彼はあてもない残りの人生を送り始めることになる。されど、捨てる神あれば拾う神あり。師匠との出会いが待っていた。



(この稿おわり)



わが街角の金魚の絵。鎮守の森、諏方神社の祭りの日。 (2011年8月28日撮影)