今や娯楽小説や映画のジャンルにおいて、ハードボイルドという分類はほとんどお目にかからなくなった。その大半はミステリ、アクション、サスペンスといったあたりに分散、吸収されてしまったのであろう。
同様に、かつて使われていた推理小説、探偵小説といった日本語の区分もほとんど死語になった。他方で、ノワールなどという意味不明のフランス語(?)が用いられたりする。
英英辞書「Webster」を引くと、「hardboiled」とは形容詞であり、まず、「感情を廃した、タフな」という意味があり、他に、フィクションのジャンルとして、非情でタフで、暴力も辞さないような捜査官や探偵が出てくるもの(大雑把な訳です)とある。
広辞苑第六版はどうか。(1)感情を交えず、客観的な態度・文体で事実を描写する文学の手法。ヘミングウェーらによって確立された。(2)推理小説の一ジャンル。(1)の手法を応用し、非情な探偵を主人公とするもの。ハメット、チャンドラーらが代表的な作家。
もとより娯楽文学たるもの、辞書的な定義に規定されてしかるべきにあらず。何も探偵が出て来なくでも、主役は悪人であろうと、一般人であろうと、ハードボイルドは成立するというのが、私の勝手な解釈である。
実際、私の書棚を飾るクラムリー、ルヘイン、パーカー、ペレケノーシス、エルロイ等の作品群はもっと幅が広い。これら全てをハードボイルドと呼ぶかどうかは異論もあろうが。
ともあれ、古典的、王道的なハードボイルドとは、「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく値打ちが無い」という、心身共にこの上なく強くて、情誼に厚い男が出て来なければ、てんで話にならないのだ。
辞書は「非情」とか「感情を廃した」などと言うが、実は「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たいこの世界」に生きているのであって、しばしばハードボイルドの主人公たちは、家族愛や友情や色恋沙汰に翻弄されながら、世間一般の正邪、真偽とは別の価値を拠りどころにして行動するのである。
斯様なスパイスが抜けた自称ハードボイルドなどは単なる固ゆで卵であり、任侠の名に値しない、弱い者いじめだけの暴力団に等しい。このため、しばしば、ハードボイルドを理解しない者からは、センチメンタル過ぎるという批判を受ける。余計なお世話というものであろう。
ひとたび、バードボイルド人生を選んだのであれば、もう後に引くことはできない。争いごとには滅多に負けてはならない。悲しみを忘れてはならない。やり残したことがあったら、やらなくてはならない。弱い者や身近な者、大切なものを守るためには、命を賭けなければならない。
こんなことを、クドクドと書いたのは他でもない。オッチョ、貴方の登場を待っていたのだ。時は世紀末迫る西暦2000年の夏、処はタイの首都バンコクの裏街。第3巻第11話、「バンコクの男」が始まる。
(この稿おわり)
街中から望む雲。なぜか私は雲の写真を撮るのが好きなのです。
(2011年8月26日撮影)
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