おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

特製ケンちゃんライス     (20世紀少年 第96回)

 第3巻の109ページ、クラス会が終わったときフクベエは酩酊状態になっていて、隣席のケンヂが彼を自宅に送ることになったらしい。

 タクシーの車内で、フクベエの携帯電話が鳴る。1997年の日本は、まだあまり携帯が普及していなかったと思うが、さすが悪党は情報が命、すでに使っている。確かに当時のケータイは、このようにアンテナとスピーカーがついていたなあ。


 フクベエの頼みで、ケンヂがその電話に出ると、怪しげな女が電話口で怒っていて、「他にも女がいるんでしょ?」などと言われてしまう。フクベエに女だぞと伝えると、そんなことばっかりやってるから、カミさん、カルトにハマっちまったんだなとぼやいている。女からの電話は工作なのか偶然なのか分からないが、フクベエの嘘全体に現実感を与えている。

 たどり着いた「自宅」は、ケンヂの評価によると、「いいところに住んでるじゃないか」というマンションで、部屋番号は606、オーメンと一字違い。その部屋には、腹を空かせた小さな子供が3人も待っていた。この子たちがそろって、フクベエ風の垂れ目なので、ケンヂも私もすっかり騙された。


 子供たちがせがんでもフクベエは床にごろりと倒れたまま動かないので、ケンヂは子供らの食事の用意をすることにした。「おじさん誰?」と訊かれて、「おじさんじゃねえ。地球を救うスーパーヒーローだ。」とケンヂは名乗ったが、後年、これは下の子からマルオに伝わる。

 これに続くケンヂのセリフがいい。「平和のために、まずは、お前たちのメシを作る」。この夜からケンヂは、正義と平和のために戦い続けることになるのだが、彼の良さは先ず身近で困っている人たちを助けずにはいられないという美徳の持ち主であることだ。ケンヂが人を動かしたのは、良い歌をうたったというだけではないよ。


 私が子供のころの正義の味方たちは、必ずしもそうではなかったと思う。怪獣が都会で暴れ始めたら最後、ウルトラマンは犠牲者が出るのも覚悟のうえで周囲のビルや道路を壊してでも、怪獣退治の使命を果たさなければならない。

 われわれは子供心にも、そうしなければ更に被害が拡大するのだから、これも仕方がないことなのだという、サンデル教授が聞いたら涙を流して喜びそうな、ベンサム功利主義に基づく判断により、ウルトラマンを支持していたのだ。


 直前にフクベエから、「思い出した。もう一人、よげんの書を知っていたのは、サダキヨだ」という衝撃の情報がもたらされたが、まず、ケンヂは中華鍋を振るって炒飯を作った。すぐ救える人から順番に救うというのは、山岳救助の発想と同じである。

 売れなかったバンドのころ(こういう表現は、通常、その後、売れたときに使う)、ケンヂはこの「特製ケンちゃんライス」で生き延びたそうだから、さすがはロック・バンドのリーダー、酒屋の親には寄生せずに自炊していたようだ。


 私はチャーハンが大好きである。サンフランシスコではチャイナ・タウンに、週二三回ほど、大盛りのフライド・ライスを食べに行くのが楽しみであった。

 プノンペンの街角の中華料理屋、英語が全く通じない中国人の親爺がつくる炒飯は美味しかった。作り手の「気合い」が入っている炒飯ほど美味い食い物はこの世にない。


 ケンヂは自慢の料理の評価を確認したくて「うまいか」と訊くが、食事に夢中の子供たちからは返事がもらえないので、「け、結構、結構。言葉を失うほどうまいか」と解釈しているのだが、これは正しい判断であった。

 もっとも、続けて、お母ちゃんが出て行ってつらくても元気出せ、お父ちゃんのフクベエもつらいんだから力になってやれという言葉は、心優しい励ましだが、見当はずれであったため、またも返事はもらえなかったのであった。


 酔いつぶれた風情のフクベエは、ベッドにたどりついたものの、スーツ姿で転がっている。彼は「よげんの書が見つかれば、次にともだちが何をしようとしているかわかる」とケンヂに言うが、一緒に戦おうとケンヂが声をかけたときには、もう寝入った様子。この晩のお芝居も「遊び」の一環なのだろうか。

 立ち去りかけたケンヂは、一枚のCDに目が留まる。なぜか虎に腰かけているマーク・ボランをあしらったカバー・デザインは、1973年に発売された(らしい。ネット情報による)T-REXの「GREATEST HITS」というベスト・アルバムだった。懐かしいな、「20センチュリーボーイ」、とケンヂはつぶやく。


 私が過去このブログで何度か、「キリコの夫たるフクベエ」と、「クラス会から血のおおみそかまでのフクベエ」は同一人物なのだろうかと、しつこく疑念を呈してきた理由の一つはここにある。

 キリコの夫たるフクベエの少年時代は、「もう一人のナショナル・キッド」と比べれば、かなり詳しく描かれているが、「20世紀少年」やロックとの関わりは一切ない。

 「20世紀少年」との関連が語られているのは、カンナの父ではないほうの“ともだち“が、カンナに向かって「僕が20世紀少年だ」と言う場面と、バーチャル・アトラクションの中で、中学校2年生のナショナル・キッドのお面を付けた少年が、放送室を乗っ取ってケンヂが校内放送した「20世紀少年」を聴き、思い直して飛び降り自殺を取りやめるシーンである。


 この二つの場面は、当然、相互に関連があると考えるのが自然であると思う。二人目の“ともだち”が、このときすでにフクベエとそっくりの顔をしていたのであれば、このクラス会のフクベエは、本物のクラスメートではなく、そちらの偽物のほうだったという仮定はできるし、このCDがここにある以上、さらに想像はたくましくなる。

 もっとも、複数の“ともだち”が二人一役でケンヂと「遊んで」いるならば、得意の「謎かけ」を共同でやっても不思議ではないので、決定的な材料にはならない。ここで答えを急ぐこともない。ケンヂは忙しい。次に、サダキヨの消息を追わなくてはならない。



(この稿おわり)


実家のある住宅街に奇跡的に残っている田んぼ。豊年満作。
こんなお米で、美味しい炒飯が食べたいな。(2011年8月19日)