おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

中野サンプラザにて     (20世紀少年 第81回)

 ドンキーも逃亡者も死んでしまった以上、ケンヂと”ともだち”を結ぶ線は、敷島教授とその教え子の田村マサオしかない。そこで彼は再び、お茶の水工科大学に行って消息を確かめようとした。第3巻の37ページ。

 早速、ゼミの学生に「暴走お兄さん」と皮肉っぽく声を掛けられているので、どうやら先日のソフトボール大会は、代走ケンヂが暴走し本塁で憤死したため、敷島ゼミのチームは大事な試合を落としたらしい。人選ミスであろう。

 
 その学生によれば、マサオも教授も依然として行方が知れないが、他方、マサオから百枚ほどのビラがゼミ宛てに届いているのだという。一枚貼っておいたという、そのビラを見れば、ポスターと呼んだ方がよい立派な貼り紙に、巨大なともだちマークの目玉と、「ともだちコンサート」の文字。

 すでにコンサートは第169回とあるから、ここまで来るのに五年、十年はかかっているのだろう。入場料はS席が30,000円、A席も25,000と、かなり高額である。これでも満員になるのだ。開催日は97年9月19日。

 会場名が書かれていないが、心配して店に来たヨシツネとマルオに対してお母ちゃんが、ケンヂはともだちのコンサートに行ったと伝えている日、ケンヂの目前にそびえ立つ建築物の独特の外見は、中野サンプラザで間違いなかろう。


 またも脱線します。中野サンプラザには、セミナーや研修などで何回か訪れたことがあるが、一度だけコンサートにも行ったことがある。幸い、ともだちではなくて、B.B.キングだった。1990年代の半ばと記憶しているから、すでに御歳七十前後に達していたかと思うが、どうして唄って喋ってギターをガンガン引いて、ものすごく元気なのであった。

 途中で彼が、これまで一緒にプレーしたミュージシャンの中で、特に印象に残っているという4人の名を挙げたのを覚えている。うち一人は聞いたことがない名だった。そして、残りの3人のうち2人はジャンル違いで意外だったが、マイルス・デイビスジミ・ヘンドリクス! いずれも斯界の革命児。ここでは多言は無用としよう。


 残りの一人は、これも驚いたが、スティーヴィー・レイ・ヴォーンであった。私がアメリカにいた1980年代後半に活躍した白人のブルース・ギタリストである。タワー・レコードで何となく気になって彼の新譜のカセットを買ったのだが、天高く空を飛ぶがごとくの雄大な演奏であった。

 その直後に、スティーヴィーはヘリコプターの墜落事故で若死にしてしまった。B.B.キングは年齢や人種を超えて、このギタリストにブルースの将来を託していたに違いないと思う。そうでなければ、わざわざ日本で、必ずしも知名度抜群とはいえない彼の名を出すとは思えない。


 その神聖なる中野サンプラザのコンサート会場で、これから悪魔の儀式が始まろうとしている。ケンヂは袂にレーザー銃を呑んで、いよいよ直接ともだちの正体を確かめようと乗り込んでゆくことになった。


(この稿おわり)


これでも現代の東京23区内。(2011年8月5日撮影)