おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

キリコとケンヂの年齢差は?     (20世紀少年 第64回)


 幼いころや若いころにケンヂが死にかけた事故のうち、3回中2回は溺れかけてキリコに救ってもらったものであるが、残りの1回はバイクの転倒事故で、第2回の126ページ目に出てくる。タイヤのスリップ痕が長い。ハンドル操作を誤ったか。

 弟が昏睡から目が覚めた途端に、看病中の姉がかけた言葉は例によって「バカね」であった。当然であろう。「よく助かったって、お医者さんも言ってた」ほどの派手な事故だったらしい。

 ケンヂは右腕の肘から先の全体には、しっかりしたギブスがはめ込まれている。ケンヂは右利きであり、ギタリストが利き腕に大怪我するなど、言語道断の沙汰である。バイクはそもそも危ない。自転車と同じタイヤの数で、自動車と同じようなスピードが出るのだから。名手デュアン・オールマンもバイクの事故で、あたら若い命を落とした。


 キリコとケンヂの年齢差、学年差は幾つなのだろう。本筋と関係なさそうだが、気になると止まらないのが我が心情である。第2巻に出て来る川に落ちた場面と、ゴジラの息子の映画を観た帰りの二人は、体格や雰囲気の違いからして2歳から4歳ぐらいの年の差だろうかと、まず、見当をつけてみる。

 次回以降に詳述するが、ケンヂがまだお母ちゃんのお腹の中にいた1959年、キリコは「あたいがお母ちゃんになる」と141ページで両親に宣言している。この幼いキリコも、2歳から4歳ぐらいではなかろうか。1歳児では、この発言は無理だろう。

 このとき彼女は、正座して箸と茶碗も使いこなしている。それに、後に第10巻で、関口先生は6年生のキリコの担任を務めたあとで、5年生のケンヂの担任になっていることが分かるので、2学年かそれ以上は離れている。


 ここで病室に戻ると、126ページ目から128ページの病室で、ケンヂが目覚めたこの日は、キリコが志望していた大学の受験日だったことが、後になって分かったとケンヂが述懐している。となれば、キリコは高校3年生か、浪人中の身の上である。

 他方で、ケンヂは無免許運転でない限り、バイクの免許を持てる年齢に達している。一般のバイクの免許は、乗用車の普通免許と一緒で18歳以上。ただし、50cc以下の原動機付自転車に必要な原付免許は16歳からである。ケンヂ16歳、キリコ18歳なら、一応の計算は合う。

 病院でのケンヂは、頭に包帯がグルグル巻きの大怪我である。原付は私も運転していたのだが、原付運転にヘルメットが義務付けられたのは、私の渡米が決まって原付を廃車にした1986年のことである。ケンヂ27歳の年だ。それより前なら原付の転倒事故で、頭にかなりの怪我をしても不思議ではない。


 だが、ここでの二人はそんなに若いだろうか。キリコの説明によると、二人の両親は「あんな、バカ息子いらないって、帰った」とのことである。バカ息子呼ばわりに異論はないが、しかし、両親はキリコの志望校の受験日を忘れてはおるまい。それなのに、その娘に任せて帰ってしまったのはなぜか。

 推測するほかないが、ご両親はあくまでキリコに酒屋を継いでほしいのであって、大学に進学させて微生物の勉強をさせるという気持ちもお金もなかったのではないか。これは結果から遡った解釈です。実際に、遠藤酒店を継いだのはキリコであり、ケンヂはバンド活動を続けたのだから。


 マルオもケロヨンも、それぞれ小学校時代から親父さんたちに後継ぎとして鍛えられ始め、それなりに働き、実際に跡を継いでいるのだが、遠藤家ではかなり早い段階で長男相続を断念したきらいがある。

 キリコの進学を希う気持ちなど、両親には無かったのではなかろうか。そうでなければケンヂの看病を任せきりにはできまい。キリコの駆け落ち(?)と、さらにカンナを残しての失踪は、お母ちゃんにとって本当に辛い出来事であったに相違ない。


 このことに何故こんなにこだわったかというと、第19巻の第9話でキリコは父親の死去後も、母とともに商売を続けながら、大学受験を続けていることが分かる。金も時間もない中で、5年、10年、あるいはそれ以上、キリコは夢を捨て去ることなく、研究者への道を探り続けていたのだ。

 それが実現しないまま、プロポーズしてくれた相手を亡くし、茫然自失の体だったに違いないときに、ともだちの悪の手が伸びた。そう考えないと、この理知的で冷静な女性が、この話に乗った事情を納得するのが難しいからです。

 

(この稿おわり)


むくむくと咲くムクゲの花。(2011年7月30日撮影)















































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