ケンヂとお母ちゃんのコンビニ店に新規雇用された店員さんは、ヤマダエリカさんという娘さんであるが、「えらっさいますえ〜」とか「ありあとあした〜」といった発音しかできない。映画化の際は、時間を超えて製作できるなら、若いころの研ナオコに是非演じてもらいたかった。
本社営業担当の大竹さんに、この店の売り上げが伸びない理由が分かったと言われた店長の遠藤健児氏は、すみません、エリカちゃんの滑舌が悪くってと謝っているのだが、失敗や不振をバイトのせいにしたら古今東西、経営は終わりである。
さすがに大竹は相手にせず、そのかわり背中のカンナを指さして、「これですよ、これ」と断定のうえ「どこのコンビニに、背中に赤ん坊しょった店長がいますか」「そんなものが年中いる店で、お客さまが気持ち良く買い物できますか」と厳しくたたみかけている。
ケンヂは困惑してばかりであるが、私ならここまで言われたら、商品の中で特に固くて重くて殴りやすいものを選んで、この無神経な男の頭か顔を、優しく撫でて差し上げるかもしれない。
背中に赤ん坊を背負ったお母ちゃんやお祖母ちゃんやお姉ちゃんを、小売店や飲食店の売り手として買い手として、ごく普通に見かけた時代は、一体いつごろ終わってしまったのだろう。巨大商業資本が、零細の商業・サービス業を駆逐していった時期と重なるに違いない。
今のコンビニ業界で、もしもこの大竹と同じような考え方をしている経営者がいるのであれば、私は絶対にそこでは買い物をしない。ケンヂのような店長がいたら、わざわざ用事を作ってでも、その店に行くだろう。
育児介護休業法を改正しても、その恩恵を受けるのは大企業やお役所の経営者と労働者が主体であって、中小零細の生産現場では、育児休業どころか、産前産後の休業も許されないところが大半なのではないか。
まして、赤ん坊しょって働けるところなど殆どないに違いない。ここを何とか少しでも改善しなければ、少子化はとどまるところを知るまい。
ところでケンヂの場合、この話を共同経営者のお母ちゃんにしない訳にはいかず、例によってお母ちゃんの愚痴が始まり、「だいだいキリコは」という、いつもの話題も加わったおかげで、姉キリコのことをあれこれと思い出すうちに(詳しくは次回以降で触れる)、姉がいかに自分を守ってくれたかを思い知る。
その姉が緊急事態でここに居ない以上、恩を返す相手はとりあえず娘のカンナでなければならない。正しい判断です。しかも、お母ちゃんから聞いた衝撃の事実、すなわちキリコがいなければケンヂは生まれてこなかったという話を初めて聞き、これまた間の悪いときに、大竹が再び指導に来店してきたのだな。
いつになくケンヂには経営者そして家長たるべき責任の重みを感じるスイッチが入っていたのだ。相変わらず赤ん坊を「それ」扱いする大竹担当に対して、店長は「カンナはカンナだ。物みたいに言うな。」と、もはや敬語も抜きの宣戦布告に等しい反論を行う。カンナの「だー!」も健在。
ようやく一社会人としての気合いが入ったと言うべし。第2巻のカバーに描かれれている、「焼シャケ」のおにぎりをその手に抱いて目つき鋭く読者を見据えているのは、この時点のケンヂであろう。カンナも戦闘モードに入っている。ここで終われば幸せだったかもしれない。
だが、間もなく神様とホームレスたちが、弁当の万引き、というよりは、引ったくりに来店する。彼らは泥棒目的で来たのではなく、ケンヂをおびき寄せなければ、地球の危機だったから仕方がないのだ。しかし、そのシーンに移る前に、私はもう少し遠藤家に留まりたい。いまここで、キリコのことを語る。
(この稿おわり)
裏側から見た朝顔。(2011年7月30日)
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