ドンキーの訃報に接してケンヂが思い出したのは、まず鼻水タオル、そして裸足で走る脚の速さ、さらにジャリ穴の事件という子供のころの記憶だったが、死後に届いたドンキーからの手紙により、彼が敷島教授と同様、ともだちマーク(ケンヂ自身はまだこの印の謂われを思い出していない)に関わりがあったことを知る。
そこで、悲しみに沈むドンキーの奥さまに会いに出かける。漫画の直前の話題がコリンズ。それを引き継ぐ形で、ドンキーの本棚の上に飾ってあるアポロの月着陸船の模型が悲しい。ドンキーは相対性理論まで勉強していた様子だ。部屋に残された屈折式の天体望遠鏡は、かなり高性能のものではないかと思う。天体追跡用の架台もしっかりした感じのものだ。
奥さまは、このマーク自体に覚えはないものの、ケンヂに、悩みを抱えていた様子はなかったかと尋ねられると、ドンキーの優秀な元教え子で、お茶の水工科大に進学したマサオ君とかいう子が、何か悪い”友達”に妙なことを吹きこまれたような・・・という話が出た。
ケンヂは、その話を聞きながら、「また連絡をしますって言った人間が、自ら命を絶つなんて思えないんです」と語る。この直感は正しかった。帰り道は月夜。背中のカンナが振り向いて満月を見ている。ドンキーの家にあったカレンダーは、27日が水曜日になっており、1997年は8月27日が水曜日にあたる。カンナが眺めていたのは中秋の名月か。ドンキーが夢見た旗は立っていただろうか。
ケンヂはマサオの名を手がかりに、お茶の水工科大を訪問する。そこで彼はカンナの「だー!」という応援を得て、学生課から「田村マサオ」という本名と、彼が例のビールを飲み逃げした敷島教授のゼミ生であったことを訊き出した。このときのケンヂは、コンビニ店長の服装のままだし、背中にカンナをおんぶしているから、お茶の水工科大は彼の生活範囲内にあるはずだ。御茶ノ水のそばか?
さて、その日、敷島ゼミの学生たちは教授の行方不明を奇禍として、ソフトボールの試合中であった。その選手たちがそろって、ともだちマークのTシャツを着ていることにケンヂは驚く。もはやケンヂの行く先々で、シンクロニシティーのごとく、ともだちマークが待っているのだ。
試合中に9人しかいない同チームに怪我人が出て、ケンヂはピンチ・ランナーに駆り出されてしまう。カンナはとても嬉しそうで、得意の「だー!」で応援団に加わっている。小さな子供は親や親戚ご近所など、知っている大人が身体を動かすのを見るのが大好きなのだ。本当に情操教育として運動会や遠足を大切に思うなら、幼稚園や小学校は、それらに親の出番をもっと増やすべきである。
サヨナラのランナーだ。ケンヂは気合いを入れつつ靴を脱ぎ、裸足になってサード・ベースに立つ。裸足のほうが速く走れると言って、実際に速く走った友がいたのだ。どんな打球が飛んでも、ケンヂは走るつもりだったに違いない。打球はボテボテで、おそらく前進守備の内野へのゴロ、バックホームが良かったようです。ランナーはホームで憤死した。
このあとケンヂはマサオに会いに行くのだが、ともだちマークを見せても、「そのマークまで辿りついたなら、ともだちまであと一歩だ、この一歩は小さいが人類にとっては偉大な躍進だ」などとケンヂには要領を得ない反応ばかり。
ちなみに、「知りたいなら歯あ磨け」とマサオに説教されて、「ドリフか、おまえは...。」というケンヂの反応が可笑しい。視聴率が30%を切ったとき、関係者は大変な危機感に襲われましたと、今は亡きいかりや長介さんが取材に応えていたのを思い出す。
「8時だヨ! 全員集合」は、子供時代のわれわれにとって必見の番組であった。「歯、磨けよ」も、加藤茶による終幕の挨拶において、不可欠の命令であった。その後ろで、いつもニコニコ笑っていたスーちゃんも、もういない。
この番組は視聴率も放映期間も記録的なものだったが、インタビューで長さんが自慢気に語っていたのは数字でも人気でもなかった。以下、例によって私の記憶頼りなので細部はちょっと違うかもしれない。
「私たちは単に演じていただけではありません。脚本も配役も演出も、音楽も大道具も小道具も、みんな自分たちでやっていたのです」。念のため、ドリフターズだけで全部やっていたという言い方ではなくて、全部に関わっていたという意味合いでした。
ケンヂはマサオに対し、ドンキーに何があったのか知りたいと問い詰めるのだが、マサオは相手にならない。この小僧は自分の恩師を殺したのだが、「知りたいのなら、ともだちになれ」と言い残して去ってしまう。ケンヂは話しにならない相手との会話を諦め、再び少年時代からの友人たちの元に戻る。戻って良かったかどうか、ともかく進展があった。
(この稿おわり)
自動車道の交差点を堂々と走る都電荒川線。おそらくドンキーのほうが速い。
(2011年7月4日撮影)
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