おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

私はコリンズ     (20世紀少年 第37回)

 アポロ11号の月面着陸は、私が小学校4年生の夏だったが、やがてクラス内に「コリンズは頭がおかしくなった」という噂が流れた。まったく、ヨシツネの言うとおり、本当かどうか確かめることもせず、子供はそんな話ばかりしていたのだ。ただし、最初にこの話を聞いたとき、笑えなかったのは覚えている。


 コリンズだけは月面に着陸することが許されなかった。私たちは子供心にも、何となく気の毒だなと思っていたのだ。大人になればそうは考えない。こういう立場は誰もが嫌というほど繰り返し経験するものであって、たまたま(というと本人は異論があるかもしれないが)、コリンズは注目度が高すぎただけだ。

 それに万が一、月面着陸や離陸などの際に大事故が起き、二人がコリンズの船に戻れなくなったとき、おそらくコリンズは両名を救出する時間的余裕も、その技術や設備もなかっただろうから、かれは同僚二人を見離して、一人地球に戻る可能性もあるという任務を背負っていたのだ。大変な役割であり、いい年して勝手に同情すべきではない。


 ところが、この作品にはコリンズを気の毒がる話が繰り返し出て来て、先ずは第1巻の122ページ、会場の信者たちに目を閉じさせ手を結ばせた”ともだち”が、「かつて私たちは秘密基地で手を結び、地球の平和を守ることを誓った」云々と語った後、「私はコリンズ」と言って泣くシーンがある。

 ”ともだち”によれば、コリンズは「月の周回軌道から、アームストロングとオルドリンが着陸するのを見ていた。月面をあんなに身近に見ながら、その地を踏みしめることなく帰還した」のであり、それはそれで事実としても、なぜ涙を流すほどの感情移入をするのであろうか。


 この男が(先ず間違いなく同一人物だと思うが)、第12巻の193ページ目でオッチョに「お前は誰だ」と訊かれて、「私はコリンズ」と答えてから、同じような話をしている。このときは具体例も挙げており、一つはクラス中のスプーンを曲げた事件、もう一つは巨大なテルテル坊主を作った騒動、いずれも自分がやったのに誰も見てくれなかったと嘆いている。

 もう一箇所、先ほどの第1巻で信者の前で泣いているシーンの直後に、少年時代、ドンキーがアポロの月着陸に大騒ぎするのを呆然と見送るケンヂとマルオとヨシツネの後ろから、「コリンズ中佐が可哀そうだ・・・」と語る、男の子らしき後ろ姿が描かれている。

 この前後関係から読者は、”ともだち”と、このケンヂたちの知り合いらしき少年が、同じ人物ではないかと想像できるようになっている。


 第12巻の男は、この直後に山根に射殺されてオッチョに検死されたフクベエであるから、第1巻で同じ話をして泣いているのもフクベエであり、さらに、スプーン曲げも首つり坂のテルテル坊主もフクベエの仕業として描かれているから、ドンキーに異論を申し立てている少年も、フクベエと考えるのが自然ということになる。

 フクベエ少年が誰も自分を見てくれないと嘆いたのは、これらだけではなく、何といっても大阪万博に行けなかったこと、さらに、大阪にいるはずの自分が首つり坂の事件に参加しているのに誰も不思議に思わないこと、また、万博に行ったことにして日記の大量偽造までしたのに、「万博組」そのものが首つり坂事件でヒーローになったケンヂのオッチョのために霞んでしまったことなど、万博がらみでたくさんある。

 
 ただし、大阪万博は1970年の夏休みであり、アポロ11号の月着陸は1969年の7月だから、69年にフクベエ少年がコリンズを「かわいそうだ」と言っているのは、一連の万博騒動の影響ではない。この時期に、誰も自分を見てくれないと彼が嘆いている情景は、第16巻の前半に描かれている。オッチョやケンヂが、よげんの書で夢中になっていたころ、フクベエは秘密基地に招いてもらえなかったのだ。

 それが辛かったのだと考えれば、第1巻122ページに戻ると、秘密基地の話をした後で、「私はコリンズ」と語って泣いているのと話がつながる。一度でも経験したことのあるものなら、仲間はずれほど辛いものはないことを知っている。そこから抜け出すために、人は戦ったり逃げたり工夫したりして大人になっていくのだと思う。

 フクベエは通過儀礼に背を向けてしまい、そして、彼の心は消化不良を起こしたに相違ない。



(この稿おわり)



本文と一切関係なし。平成20年開通、わが家のそばの「日暮里・舎人ライナー」。
21世紀モノレール。 (撮影2011年7月4日)












































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