ペリン神父 (20世紀少年 第446回)

 今回は1995年のナポリが舞台です。ナポリには行ったことがない。その名を知ったのは、スパゲティのナポリタンか、「ナポリを観てから死ね」か、フィンガー5の歌詞に出て来た「ナポリの盗賊」か。昔からギャングで有名だったのだろうか...。そういえば同市のゴミ問題は片付いたのだろうか。

 第14巻第2話の最初の絵は、欧州の庶民が暮す街の写真などでよく見かける、道の反対側の家との間に棒やロープを渡して、洗濯物を干している風景である。あれはどうやって取りこむのであろうか。ちょうど20年前に、ルチアーノはこの街に住み、ストリート・ギャングをやっていたのだった。


 換気用の扇風機から外の光が差し込んでいる。昼間だというのに、ルチアーノはワイン・ボトルをラッパ飲みしている最中だ。部屋中、混乱の極み。ソファには、スタイルは良いが生活ぶりは良さそうもない若い女が熟睡中。ルチアーノは紙幣を手に取っている。50000リラ。まだユーロに切り替わる前だ。もうすぐ元に戻るのではという噂もあるが大丈夫かな。

 そこにいきなり、ノックもせずに入ってきたのがペリン神父で、探したましたよ、君がルチアーノだねと呼び捨てである。ルチアーノも動じることなく、神父さんが俺を贖罪しにきたのかよ、まあ一杯どうよと酒を勧めている。神父は白ワインならいけるが、赤はアレルギーで駄目だと残念ながら断った。彼は酒好きで有名であった。


 「ふん」と言って酒をあおっているルチアーノが可愛い。神父は神父で、これが君の作った偽札かと感心している様子。まったく本物と区別がつかないらしい。私は昔、銀行に勤めていて、一度だけ、本物の偽札を手にしたことがある。見た目はまずまずだったが、手触りが極めて嫌らしく、瞬時に悪意が伝わってきた。

 神父の用件は幸い偽札作りではなく、古文書の鑑定であった。16世紀のカタリ派の聖書だというのだが、さすがの神父もこれだけは自分で真贋の判断ができなかったらしい。「謝礼は払います。もちろん、本物のお金でね。」という洒落た挨拶と本を残して神父はさっさと帰ってしまった。ルチアーノが聖書を読んだのは、その時が初めてだった...。


 しばらくして、神父はルチアーノを再訪し、鑑定結果を尋ねた。私はこのときのルチアーノの返事と、ペリン神父の反応が好きである。「偽物だったよ。古文書でも何でもない、最近作られたものだ。」とルチアーノは自信満々で結論を伝えた後で、こう言った。「でも、聖書は聖書だ。中身は本物だったよ」。ぺリン神父は嬉しそうに頷くのみ。

 ところで、ルチアーノが読んだ聖書は、いま読まれているキリスト教公認のバイブルではなく、神父によれば異端のカタリ派の聖書である。カタリ派は別名アルビジョア派(高校の歴史で、アルビジョア十字軍というのが出てきたが、異端征伐だったのだ)とも呼ばれ、今では絶滅して教義内容も不詳であるらしい。先日、話題にしたグノーシスと同様、善悪二元論だそうだ。


 その後のことは描かれていないが、たぶんルチアーノはこれを契機として極道から足を洗い、ペリン神父に弟子入りして教えを乞うたのだと思う。イタリアでの最後の場面は、いかにも欧州らしいドーム型のナポリ駅舎で、聖職の衣類をゴミ箱に捨てて、ギャング時代のなりで追っ手の目をくらましつつ歩くルチアーノ神父の姿である。

 仁谷神父の倶梨伽羅紋々は、もはや伝統芸能の域に達しているといってもよいほどの見事な刺青だが、ルチアーノ神父や、後にケロヨンたちが出会うアメリカのバイク野郎共のタトゥーは、なんだかヒジキのような模様だけであり、どうにも品格に欠ける。


 ルチアーノ神父は、後に日本の警察に捕まったときパスポートを持っていなかった。ナポリで電車に乗ってから、どうやって日本まで来たのかは分からない。彼は駅を歩きながら、「聖書は聖書だ。中身は本物だったよ」と言ったときの、ペリル神父の感想を思い出している。

 「でも、気をつけなきゃいけない。偽物だが、人を迷わす甘美で危険なものがある。そういう本をわれわれは、悪魔の予言書と呼んでいる。」とペリン神父は言った。それだけの知恵がありながら、神父は「悪魔の予言書」に関わった挙句、悪魔に惑わされた者共に命を奪われた。

 ルチアーノ神父の日本行きは、仁谷神父の言葉を借りれば、「親の仇を子がとるのは使命だからよ」ということでもあった。ミッションのためなら、神父さんたちは命を賭ける。そして彼は何を思ったか、日本に着いてから、命が幾つあっても足りないといわれる歌舞伎町に行き、ひと騒動おこすことになる。




(この稿おわり)




宮古島沖の海中にて(2012年7月11撮影)



















































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