おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

仲間と友達 その1 (20世紀少年 第440回)

 第15巻に入る前に、少し寄り道します。仲間と友達という言葉は同じように使われることもあるが、似て非なる部分もあり、「20世紀少年」においては意識的にかどうか分からないが、微妙に使い分けがなされているように感じる。さらに、物語においては、普通の意味での友達と、普通ではない”ともだち”が、こちらは意図的に書き分けられている。

 例によって、まずは広辞苑第六版で辞書的な定義を確認してみると、まず、ともだち【友達】は、「親しく交わっている人。友。友人。朋友。」と、そっけないほどシンプルであり、しかも「友」以下はトートロジーに過ぎない。朋友か...。ブリトニーさんを思い出すなー。ちなみに、添え書きで「元来複数にいうが、現在は一人の場合にも用いる」との注がついている。


 そっけないのも当然で、国語辞典を引くためには、ある程度、日本語を知っていなくてはならず(私が英英辞典を買ったのはアメリカ駐在のころだった)、ある程度知っている人にとって「友達」は調べるまでもなく、いわば、すでにその意味を体で覚えているものなのだから、この程度の説明で十分なのだ。

 では、「仲間」はどうか。こちらの解説は意外と長い。意味が複数あって、体で覚えている意味とは異なるニュアンスもあるし、複合語もたくさん引用されている。すなわち、なかま【仲間】とは、「①ともに事をする人、同じ仕事をする人(以下、省略)、②近世の商工業者の独占的な同業組合。株仲間。」とある。後者はギルドだな。


 続いて、熟語の幾つかを紹介すると、仲間意識、仲間内、仲間割れなどが多数、収録されている。このうち、「仲間意識」の説明を読むと、「互いに同じ組織の仲間だと感じる連帯の意識」とある。比べてみると、友達とは自分と親しい人という人間関係を表す言葉であり、仲間はむしろ社会の単位、共同体である。

 仲間に必要とされるのは、何らかの事をなそうという連帯意識なのであって、必ずしも友情は必要ない。社長と平社員でも釣り仲間になれるし、テニスの他に全く付き合いのないテニス仲間というのもあり得る。

 一緒に何かをする人たちの集まりなのだから、別に友達同士でなくても、一緒にいて不愉快でない程度なら仲間になれるのだ。「仲間外れ」というのは共同体からの排除であり、他に友達がいれば何とかなるかもしれない「絶交」よりも、通常、ダメージは大きいだろう。


 仲間という言葉が「20世紀少年」に登場するのは、かなり早い段階であり、第1巻の36ページ目、秘密基地の中でオッチョが宣言する「この印は、俺達の仲間の印だ!」に出てくる。もう一つ印象的なのは、第2巻の42ページ、ケンヂがユキジを誘う言葉、「俺達の仲間に入って、悪と戦おうぜ」。

 いずれも、「俺達」がついており、この「俺達」も「仲間」と同じような意味で、例えば、「俺達の旗」のように使われる。なお、上記のオッチョの発言には続きがあって、「これを知っている奴は本当の友達だ」というものだが、これは次のシーンに、ニセモノの”ともだち”が登場するのと対比されている。


 繰り返すが先述のとおり、仲間は友達である必要はない。例えば、秘密基地時代のオッチョとコンチが、あるいは、ケロヨンとユキジが、「親しく交わっている人」同士であった形跡はない。だが仲間である。この旗の下に結集し、悪と戦い地球を守るという決意のもとに連帯しているのだから。

 彼らの場合、利害関係とは無縁(せいぜい、漫画と「エロ雑誌」の共有程度)の仲間が結成されたのは、ひとえにケンヂの持つ求心力の強さ(仲間の表現を借りれば、相変わらずバカやってる)であろう。

 今回のロンドン・オリンピックで際立ったのは、日本選手の団体戦やリレーでの強さである。個人競技の成績の総和を上回っている。彼らは仲間なのだ。みんな笑顔で手をつないだりしているけれど、ポジション争いや個人種目で日ごろは敵なのだから、みんなそろって友達同士であるとは到底、考えられない。


 さて、第16巻の第1話に、ケンヂたちを自宅に招いたフクベエ少年が、好きなだけ漫画を読ませてあげるから、「そのかわり仲間に入れてくれるって...言った。絶対、言った。約束した。」と心の中で罵声を浴びせているシーンが出てくる。なぜなら、彼はその直前に、秘密基地に関する話題に入ろうとして無視されたからだ。怒って当然であろう。

 私はときどき妙なところでフクベエに同情することがある。きっと、子供のころの彼と似ているところがあったからだと思う(大人になってからは違います)。第7巻でビルの上から落ちたフクベエを見たケンヂが、地下水道の秘密基地時代を回想しているシーンがある。特製ケンちゃんライスのレシピの話題が出たときのことだ。


 その最後にフクベエはこう言っている。「なあ、ケンヂ。仲間に入れてくれて、本当にありがとうな」。これは彼にしては珍しく嘘偽りのない本音であるように思う。子供のころから、この男が本当にほしかったのは、自分を”ともだち”と呼ばせて従うような友達ではなく、共に事をなす仲間だったのではあるまいか。

 そして、本人はそのことを、あまり意識していなかったのではないかという感じがする。連帯の目的がいびつであろうと、すぐれたリーダーシップがあればチャイポンや王暁鋒のように仲間を作れるのだが、彼はいつまでたっても「友達」にこだわった。長くなったので「友達」については、いつかまた別の機会に語ろう。さて、第15巻。法王のお出まし。



(この稿おわり)




拙宅のバルコニーにもハイビスカスが咲きました(2012年7月16日撮影)




水中の亀さん(2012年7月12日撮影)









































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